5月5日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

(ヨハネによる福音書 21章1~14節)

説 教 「イエスの愛」

ヨハネ書は21章を追記しました。何故でしょうか。それは、20章にて「本書の目的」が書かれた後、もう一度「信仰の目」を持って、ヨハネ書の1章から読むことを意図していた本書が、信仰を知識ではなく、信仰を「イエスの愛」から始めなくてはならないことを強く意識したからではないでしょうか。私共の信仰の基盤は「私の信仰の強さ、知識」にあるのではなく、「イエスの愛」にこそあるのだということを「教会」に強く意識付けしたかったのではないかと推測するのです。本日の御言葉は21章の14節まで拝読いたしましが、21章は、その最後まで読んでみて、その意図が明確にされます。ですから14節以降も少し触れて本日は解き明かしを致します。さて、本日の御言葉の中心は何でありましょうか。「主の復活」である。これは勿論そうでありましょう。しかし、12節に記された、「イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとしなかった。主であることを知っていたからである。」弟子たちの復活の主との出会いの「感動」が弱いことに気づかれるでしょう。それよりも、「主の提供される食事(プロスファギオン)」の方がスポットライトが当たっていることに何か意図を感じられると思います。ヨハネ書は本日の御言葉を通して、「未来の共同体」「未来の教会」を表現しようとしています。本日の御言葉は、ルカ書15章の「漁師を弟子にする」の場面によく似ています。写しと言っても良いでしょう。そのルカ書では、イエス様がペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われている場面です。ヨハネはルカ書を下敷きにしながら、「人間をとる漁師:教会:牧師」の真の意味を具体的に伝えていると考えられます。その意味は、教会は、信徒は、イエスの差し出される食事(本書6章48節~「命のパン」を参照)に生かされている。その食事とはイエスの肉であり、「イエスの愛」のことである。その証拠には、15節以降に記された「イエスとペトロ」の場面で、何度も「イエスの愛」が出ていることから明確です。主はペトロに「愛するか(アガパオー)」と問い、ペトロは「愛しています(フィレオー:好き)」と答えます。ペトロは何度も問われることで、自分が如何に主を愛していたかを思い知ったでしょう。それと共に、自分を愛し続けて下さっている「イエスの愛」に励まされました。イエスの愛に生き、主の言葉に従う時、「大漁」(リバイバル)があります。私共もイエスの愛と共に。