「聖 書」
そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによってーこの方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
(使徒言行録 10章1~48節)
説 教 「神を畏れて」
本日の御言葉の出来事は、キリスト教が「世界宗教」になっていく為には、どうしても通らなくてはならなかった「分水嶺」的な「神の配剤」です。今日の登場人物コルネリウスは異邦人です。ユダヤ人は異邦人との交際を律法で禁じられていました。(偶像礼拝や汚れを避ける)しかし異邦人の側にはユダヤ教のシンパが数多く当時存在していたことはよく知られているところです。コルネリウスは、その中の一人でした。彼は、「信仰心あつく、神を畏れていた」と記されています。日本人も「信仰心があつい(エウセベス=敬虔な・神を敬う)」民族であると思います。しかし「神を畏れる」ことについては余り理解されてこなかったのではないでしょうか。ここに記す「神を畏れる」(フォベオマイ)は「神を恐れる」ではありません。「畏怖」のことです。言葉を変えるなら「神を神とせよ」ということです。全能の神に人格的な「交わり」を為す時の「畏怖」の思いのことです。神を畏れるとは真の神との対峙です。日本人は今、正しく「神を畏れる」出会いが求められているのではないでしょうか。コルネリウスは、まことに正しく「神を畏れる者」であったので、祈りと施しが神に届きました。神の祝福の配剤が与えられたのです。使徒ペトロに出会い、聖霊を受け、イエス・キリストの名による洗礼を受けることができました。神の計画は常に祝福です。この後、コルネリウスに続き、多くの信徒が生まれ、カイザリアにキリスト教団ができたとも言われています。まことに祝福の出来事ですが、ペトロはエルサレムに帰った時に、異邦人と「食事」をしたことに対して批判を受けました。ペトロは「異邦人の救い」が、神の御旨であることを伝えました。ユダヤ人たちはシンパを「半改宗者」と呼び、完全な改宗者となる為には「洗礼・割礼・供儀」が必要であるとしていました。行動が求められたのです。異邦人は汚れの対象だったのです。ユダヤ人は神の愛を忘れ、人の正しさを求めました。神はイエスを送り「平和」を回復されました。復活のイエスが弟子たちと食事をされたように、「食事」は礼拝であり、「和解」のしるしなのです。差別(汚れ・病・貧困)は分断を生み、共に食事をする(和解)世界を遠ざけます。私共は全ての者と食事をしよう。私共の宗教的正しさを捨てて、福音を受け入れ、神を畏れる生涯を歩みましょう。教会形成は神の業です。私共は神の愛に信頼し、神に従うのです。