6月16日(日)聖日礼拝

「聖 書」

それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに、行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

(コリントの信徒への手紙 二 5章6~10節)

説 教 「わたしたちは、心強い」

本日の説教題は「わたしたちは、心強い」です。パウロ先生が語る「心強い」(サレオー)は、「わたしたちの」何を意味しているのでしょうか。週報の挿絵を御覧下さい。「All is well」とあります。「All’s well that ends well」は「終わり良ければ全て良し」の意味で、「過程よりも物事の結末が大切」と解せます。この原典は、シェークスピアの同題の戯曲に由来しています。挿絵の「All is well」は、その意ではありません。キリスト者の人生は、過程が大事なのです。10節に、「キリストの裁きの座」が記されています。私共は私共の歩みの全てに対して「報い」を受けるのです。「報い」(カミゾー)は「返してもらう」の意です。私共は、自分の行いの「報い」を受けます。キリスト者は「キリスト者の幸い」を生きた報いを受けるのです。「心強い」(サレオー)は、「困難や危険、死の前でもポジティブな心持ち」を意味しています。「All is well」は、(どのような状況にある時も)「すべてが良い」と思う「状態」(~ある)を表しています。この意については、具体的な「証し」を通して、お語りしましょう。私の好きな讃美歌詩人に伝道者ファニー・クロスビーがいます。聖歌「つみとがをゆるされ」の作詞家です。彼女は盲人でした。彼女は天才的な才能を発揮し、若くして「地位・名誉・夢」を手にしました。しかし彼女は「憂鬱」であったと告白しています。彼女は友人であり同僚のヘスターに教会へ連れて行かれ、そこで讃美歌詩人への道が開かれました。彼女は霊的救いを体験しました。時に彼女の状態は、幼くして盲目となり、父を早く亡くし、母と祖母に育てられ、盲学校で才能が開花し、長じて有名な人となりました。しかし心は「憂鬱」です。同じ学校の同僚の盲目の方と結婚をし、一人の子を授かりましたが、早逝します。しかし彼女の魂の救いは「All is well」と告白します。「ああ、私は何と幸せな魂なのだろう。私はこの世で満足することを決意している。他の人々が享受していない多くの恵みを、私は享受している。」同じ盲目であったヘレン・ケラーも告白しています。「私の道は他人には暗く見えるかもしれませんが、私は心の中に魔法の光を持っています。霊的な強力なサーチライトである信仰が道を照らし、不吉な疑念が影に潜んでいても、私は臆することはない。」私共も又、目に見えるものによらず、「信仰により歩み」ます。原意は「主との関係を通して勇気を持ち歩む」です。私共の保証は聖霊です。私共は、どんな時も「心強い」のです。