「聖 書」
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目が見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
(使徒言行録 1章1~11節)
説 教 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは「力」を受ける」この御言葉は真実です。「力を受ける」とは「聖霊の力を受ける」ということです。生まれ変わりの体験をするのです。私は以前に証しをした通り、9歳の時に聖霊体験を致しました。先日ふと小学校時代の自分の写真を見ていて、「悪い顔やなぁ」と思いました。母親から專一は日曜学校に行ってから「あの子は変わった」と言ってもらっていましたが、日曜学校に行っていなかったら、もっとひどい子になっていたのだと改めて思わされました。主に感謝を致します。本日は「主の昇天日礼拝」です。次週は「ペンテコステ」です。主の弟子たちは、聖霊を受けて「生まれ変わり」ました。私のことを語るまでもなく、人は中々変わることはできません。しかし間違いなく主の弟子たちは聖霊を受けて、変わったのです。この「変わり」は私たちも必要とすることです。それどころか神様が、私たちの「変わること」を望んでおられるのです。バックストン先生をはじめ多くの宣教師が「聖霊の満たし」を受けて、日本のリバイバルのために働かれました。先生は、使徒行伝講義の中で、「この書は“使徒の働き”と言います。けれども、別の角度からいえば、これは天に昇られた主の働きとも言うべき書です」と語っておられます。先週、「パウロの殉教」の時を語りました。天国を彼は見ました。彼は見たというよりも、「天国を持っていた」のだと言えます。この現実は、「主の昇天」が現実の出来事であり、主が天に座しておられる現実を意味しています。「キリストは、…天そのものに入り」(ヘブライ9:24)「わたしはみもとに参ります」(ヨハネ17:11)「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」(ヨハネ17:24)主は聖霊を与えたいと願っておられます。私たちはどうしたらよいのでしょうか。主は既に「神の国」のことは教えて下さいました。(1:3)あとは天国を戴くだけなのです。神の国のこと聞いた弟子たちには未だ「自我」がありました。(1:6)多くの証拠を見て、なお「献身」できないのです。主は神を信じて(主の言葉を信じて)、「待ち望め」と言われました。主の言葉を信じて持ち望め。本当に信じて待つことができるならば、神は約束されたもの「聖霊」を与えて下さる。そして「聖霊の力」を受けることができる。私共は「証人(マルトュス)」(殉教)となるのです。主は今は目で見ることはできません。しかし「栄光の中(シャカイナグローリー)」で常に傍にいて下さっています。「聖霊の力」とは私の空の器を用いて主に働いて戴くことです。