6月12日(日)三位一体聖日礼拝

「聖 書」
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

(ローマの信徒への手紙 5章1~5節)

「聖霊によって、神の愛が」

「三位一体主日」に感謝申し上げます。さて私は、以前の「三位一体主日」

にモーリス・ズンデル神父を御紹介しました。覚えておられるでしょうか。ズンデル神父の御本「慎ましい現存」を通して、「唯一の神」は「自分は何も持たず(自分に固執せず)、互いに自分を与え尽くしている三位一体の愛の交わりを為されている神」である「貧しい神」という信仰告白を御紹介しました。また、「真の人間が見出されるところに神は見出される」という信仰も語りました。本日は、その続きを語ります。本日の御本は「沈黙を聴く」です。この中の章には「三位一体」があり、それは「霊性」の部に記されています。神父は御本の中で、「太陽が歌うステンドグラスになろう」と奨めておられます。これは私共の会堂前面のステンドグラスのモチーフ(着想)です。神父は「教会は私達である」と語り、「自分(私達)が、生きた福音となる責任を感じながら、一人一人が他の人々にとって神の顔となるように努める」とキリスト者に奨めました。このことは先週に、御言葉を通して聴いたことです。(ローマ8:12「わたしたちには一つの義務がある。」)「真の人」とは心の中の「現存」(キリスト)と交わりを為し続けている人のことです。「神の顔」とは「キリストのようになる」ことです。しかし、私共に「それ」は可能なのでしょうか。皆様は「信望愛」という言葉を御存知だと思います。キリスト者の姿である「信仰・希望・愛」を表す言葉です。これは姿だけではなく信仰成長の過程をも示しています。この言葉は一コリント13章「愛の賛歌」に記されているものです。パウロ先生は、この三つは、いつまでも残ると語り、「その中で最も大いなるものは、愛である。」と教えられました。この「愛」こそはキリスト者の「最高の道」であると教えられたのです。パウロ先生は「信仰義認」を告白しました。私共は神を信じる信仰を通して、「罪赦され」「神の子(養子)にされ」ます。先生は、この信仰に立ち、福音宣教を生きました。「苦難」の連続でした。先生は、苦難は忍耐に、忍耐は練達を、練達は希望を生む体験をしました。「練達」は「試練に磨かれた徳」(フランシスコ会訳)のことです。キリスト者の「苦難」は避けるものではなく、神の愛を身に受けることを通して、「打ち勝つもの」であることを知ったのです。この「徳」は「希望」です。希望は私共が神と一つである確信です。聖霊による「神の愛の注ぎ」は今もあり続けます。