6月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

(コリントの信徒への手紙 一 10章16~17節)

説 教 「一つのパン」

本日の御言葉は「聖餐式」の意味を知ると共に、私共の信仰の基を知るうえで、大切な所です。さて、私共は聖餐式の時に「パン裂き」の恵みに「あずかり」ます。本日の御言葉も「神を賛美する杯は、キリストの血に「あずかる」ことではないか」と語り、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体に「あずかる」ことではないか」と語っています。ここで語られる「あずかる」は「コイノニア」が用いられています。「コイノニア」とは「交わり」「一致」のことです。ですから「愛餐会」も「コイノニア」と呼ばれます。では「聖餐式」の時に、交わる方はどなたでしょうか。勿論、キリストです。一致する方はどなたでしょう。それも勿論、キリストであります。「聖餐式」は儀礼ではありません。キリストの死を想起(アナムネーシス)し、「キリストの体」と一致する恵みに「あずかる」(コイノニア)時なのです。私は先の礼拝にて、教会は「キリストの体」であると語りました。教会が「残してきたもの」「失くしてはならないもの」は麗しい「キリストの体」であると語りました。そして、その教会は建物ではなく、教会は「信仰者自身」であると語ったのです。私達はキリストの「いのち」を生きているのです。「わたしは命のパンである。…このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6章)イエス様は世にある時に、既に御自身が「いのちのパン」であることを宣言されておられました。私達には肉的なパンだけではなく、「霊的に養うパン」が必要なのです。(一コリント10:1~4)(申命記8:3)ここで結論を先に述べましょう。私達は信仰生活の中でキリストがここにおられたら何と言われるかとか、どのような行動をされるか等を想像することがあります。パウロは、そう(想像すること)ではない、「倣うこと」であると語るのです。(11:1)では聖餐にあずかり、キリストに倣う時に私共はどのようないのちを生きるのでしょうか。それは「清貧」です。イエスは「厩」に生まれました。「清貧」の中に「天国」があることを教える為です。ヨハネ書6章には、イエス御自身が「いのちのパン」であることが、御自身の口で語られていますが、その冒頭には「五千人の供食」が記されています。そこには少年(パイダリオン:幼少奴隷)が人々に「分け与えた」ことが告白されています。なぜ「一つのパン」か。神は唯一であり、「一つ」を分け合う処に「愛」があるからです。人は肉ではなく見えないもので生きるのです。