6月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

(マタイによる福音書 9章35節~10章8節)

「汚れた霊に対する権能」

本日の説教題は「汚れた霊に対する権能」です。主イエスは、この権能を十二使徒(アポストロス)に授け、「宣教」に遣わしました。(アポストロス)は「宣教者」(神から遣わされ者)を表しています。では「宣教」とは何か。「宣教」とは「福音」であり、「言葉と業(いやし)」であり、「聖め」であり、「ケリュグマ」であり、「愛」です。私共には、これを為す力はありません。それは当然のことです。にも拘わらずに宣教者は、その成果を己に帰すこともあることを否定できません。「宣教」は「神の業」であり、「収穫」は「神のもの」です。私共は本日の御言葉を通して、「教会」が託されている「責任の重さ」を知るべきです。また「自己」の信仰を顧みる必要があります。主イエスは「群衆」が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」を見ました(エイドン)。「群衆」は「すべての人」であり、その「有様」は「神から離れ、迷い、飢え、傷つき、患い、罪により倒れている」状態のことです。霊において死んでいる状態です。主は彼らの有様を霊的洞察により見て取り、「深く憐れまれました」(スプラギノーゾマイ)。この思いは(4:23)の時と同じものです。主は「ことば」と「業(いやし)」を通して、「福音」を宣教しました。主は、御自分が成してきた「福音」を十二使徒にも託そうとしています。このことは「教会」が与えられている「務め」も同じものです。しかし主の為されてきた「ことばと業」を為していく為には「主の権能」が必要なのです。「主の選び」が必要です。「福音」の前に人々は救われていきます(収穫)。全世界の人々に福音を届けるためには「働き手」が必要です。私共は「収穫の主」に「働き手」を送って下さるように祈りましょう。まず「教会」が聖霊の満たしにより「聖め」られるように祈りましょう。そのために「汚れた霊に対する権能」を授かることが必要です。「汚れ」(アカサルトス)は(カサロス)「聖め」の反義語です。(カサロス)は「聖・清浄・聖別」です。私共は「すべて」原罪により「世の人」であり、「悪の支配(欲)」を受けています。これが「汚れた霊」です。「汚れた霊」は私共を「欲まみれにし、神から離れさせ、病にて苦しめ、霊の死を与えます」。そこに愛はありません。私共は「主の権能」を授かり、聖霊の力を受けて、「主の戒めを守り、主の道を歩み、神を畏れる生涯」を全うしつつ、「宣教」(御国建設)に遣わされることができます。世界に愛が実るのです。