6月19日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

(コリントの信徒への手紙 一 11章23~26節)

「わたしの記念として」

私は「聖霊聖会」の御礼の為に尼崎福音教会の松浦先生のところに伺った、その時に「先生はⅭコース教師は関係ありません。あなたは牧師です。」と励ましを受けました。背中がピッとしました。私は、ここ何週間かに亘り、キリスト者には「責任」(ローマ8:12)があると申してきました。この言葉は「愛の言葉」です。本日の御言葉でパウロ先生が教会の中が混乱していたコリントの人々に向かって、「わたしがあなたがたに伝えたことは」と語気強めに語りました。その理由は「主の晩餐」の中で貧しい者が顧みられていなかったからです。パウロ先生は「キリスト者の責任」「教会の内実」を問うたのです。「この点については、ほめるわけにはいきません。」(11:22)このパウロ先生の愛の言葉は「わたしども」にも今、向けられている言葉です。パウロ先生が愛する兄弟たちに最も伝えたかったことは何でしょう。それは、「主の晩餐」は「キリストの記念」であること、そして、キリストを「想起」(アナムネーシス)し、「感謝」(エウカリスト)を捧げる礼拝であること。このことは十字架の死が「わたしのため」であったことを覚え、感謝を捧げることを意味します。私共は「主の晩餐」(聖餐式+愛餐会)を戴く度に、「主の死を告げ知らせる」証人として立っていくのです。これは「キリスト者の責任」である「キリストのようになる」ことと同じ道程を語っています。「主の晩餐」は「アガペー」(神の愛に基づく全ての愛)と呼ばれていました。「愛(アガペー)」がなくば、「記念」ではない。「愛」がなくば、「主の晩餐」ではない。「愛」がなくば、「教会」ではない。肝に命じるパウロ先生の奨励です。先週に語りました「信望愛」は三位一体の神秘が示されていること。これは「交わりの神」が「愛によりて一つ」の「唯一の神」である真実を語っています。私共は修錬によって「キリストのように」なるのではありません。キリストを「記念(想起)アナムネーシス」することを通して、聖霊によって「神の愛」が私共の心に注がれ、心が「愛で満たされる(プレローマ)」ことを通して、キリストのようになるのです。私共は教会です。教会は「愛の共同体」でなくてはなりません。形式的なものであってはなりません。主イエスは「貧しい者」「罪人」と共におられました。自らが「貧しい者」でした。主イエスは全ての者を愛し、全ての者の為に死に渡されました。私共は主を記念し、愛の共同体を目指します。