「聖 書」
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。…
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
(エフェソの信徒への手紙 1章17~23節)
説 教 「豊かな栄光」
痛ましい事件が発生してしまいました。福知山脱線事故の時にも教え子を失い、言葉にならない痛みを覚えましたが、被害者の人々の「痛み」は言葉には尽くせないものです。世は「諸行無常」だと言います。世は不変ではなく流転するということです。しかし、この痛みは「永遠」と言えるものです。教会には為す事はないのでしょうか。教会にできることは一つです。祈ることです。神を神とすることです。本日の御言葉を御覧下さい。神は「栄光の源」であると記しています。教会は「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」であるとパウロは語っています。神は愛ですから、教会は「愛の満ち溢れる場」であるということです。今回の事件の「痛み」もまた、愛にしか「救いに導く」秘訣はありません。私達は神に信頼を申し上げ、願いと感謝を捧げつつ、祈りを捧げてまいりましょう。本日の説教題を御覧下さい。「豊かな栄光」です。この「栄光」は誰のもでしょうか。これは勿論、「神」のものです。私達の救いの根源は「神」なのです。ですから「祈り」もまた、神に帰依し、神に栄光を帰することが、キリスト者の祈りの基本です。私は、この祈りを為し続ける中で、「神に裏切られたということは一度もありません」。この意味は、牧師である私の祈りは必ず、神は聞いて下さるということではありません。神は、私の困窮の時に、何度祈りを捧げても、聞いてくださらない事がありました。しかし私は思います。それでも神は「私を裏切らない」と。これは経験です。私は何十年も神に祈りを捧げ続ける中で、「神の愛」を知りました。私の祈りの中には「浅い」ものがあります。「無理解」や「誤解」にもとずくものもあります。神は、その全てを御存じで、私が捧げる祈りを、その内なる願いも含め、知り尽くしておられます。ですから、私の祈りが「すぐに」聞き届けられなかったとしても、その全ては「神の御心」であるならば、既に聞き届けられています。時が来て、最も最善な方法で、私の願い以上のものが必ず与えられます。私は「神の絶大な力」を知るのです。本日の御言葉は勿論キリスト者の「幸い」が語られています。しかし本書が信徒だけではなく、未信者の一般の方も読むことが想定されていたとするならば、「神の愛」は全ての者に及ぶということです。私達は、どんな困難な状況に置かれても「窮乏」しません。私達の前には、神の「豊かな栄光」が用意されているからです。今、痛みの中にある人々の安寧を祈り、共に痛みの中を過ごしてまいりましょう。