6月2日(日)聖日礼拝

「聖 書」

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊„によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝させるようにさせないでしょうか。

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

(ヘブライ人への手紙 9章11~15節)

説 教 「生ける神を礼拝する」

本日は「聖餐式」を執り行います。本日は、聖餐式と私共との関りについて御言葉に聴きます。私共はキリスト者として、今、「幸い」(祝福)を生きています。このことは先週の礼拝交流の説教の中で、宮本先生が語られていたことです。丁度と言ったらよいでしょうか。私も香櫨園教会で、同じ意味のことをお伝えしてきました。宮本先生は「命より大切なもの」を見出す幸いを語られていました。「命より大切なもの」とは何か。それは「永遠の命」であると先生は語られました。それも神から愛され、人から愛されることを通して、見出した「永遠の命」のことですと語られました。私も香櫨園教会にて、「あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った。」(申命記4:35)という御言葉を通して、私共は、神が神の愛を示され続けてくださったことを通して、「神を「神は愛である」と知る者とされた」と語りました。この「知る」ことは、「ほかに神はいない」と確信をもって告白できる幸いです。さて、本日の幸いは、もう一つの「幸い」を語ります。それは「生ける神を礼拝する」幸いです。本日の講壇前を御覧下さい。向かって左から、「聖霊」(赤)、「御子」(緑)、「御父」(白)が鎮座しておられます。このことは「神は唯一」でありながら「三位一体」であることを示します。「唯一」(エハード)は、「複合的単一性」を表す言葉です。聖書にて神を表す「唯一」は(エハード)のみです。私共は「三位一体の神」の愛の恵みのゆえに「礼拝者」とされているのです。本日の御言葉の前段に「新しい契約を結ぶ時が来る」と(エレミヤ31:31)預言が語られ、十字架の贖いと聖霊降臨の恵みの実現が、「主を知る者」を生み出す原動力であることが記されています。このことは、イスラエルの人々が願いつづけてきたことであり、今も願っていることです。(別紙)私共は、人の祭司に頼まず、仮初の贖いを為さずに、「完全な礼拝者」となることができます。そのことを語る御言葉が「キリストの血は、わたしたちの良心(スネイデイシス:正しく神に向く意識)を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせる」この恵みは神の愛の「極みの愛=十字架」から来ています。「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」(星野氏)星野氏は「まことの愛」を見出しました。その愛に自分を捧げようと願いました。神を礼拝する幸いです。