6月22日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

(コリントの信徒への手紙 一 11章23~26節)

説 教 「わたし(キリスト)の体」

キリストに感謝を捧げます。先週は「三位一体主日」でした。礼拝の中で、主の臨在(シャハイナグローリー)の神秘を拝したことは感謝でした。本日も又、目に見えなくとも「神の栄光」が私共を包んでいます。感謝と讃美を持って、神を礼拝いたしましょう。本日の御言葉は「主の晩餐の制定」を語るものです。「聖餐」は「目に見える神の言葉(福音)」と言われます。パウロ先生は本日の言葉を「主から受けた」ものであると言われました。私共がいつも聞く「定型」ではなく、先生が主から受けた「内実」を聞くことが、本日の御言葉から聴くことです。本日はカトリック教会では「キリストの聖体」が祝われます。勿論、ミサが執り行われます。ミサは「言葉の典礼」と「感謝の典礼」で構成されています。「感謝の典礼」はキリストの最後の晩餐と復活を記念して執り行われる「聖餐式」のことです。カトリック、プロテスタントの双方は基本は同じです。主イエスは「主の晩餐」のときに、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:20)と言われました。この意味は、エレミヤ書の「新しい契約」の預言の成就を語るものです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授ける。」「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知る。」(エレミヤ31:34)預言は成就しました。主の贖いの十字架の苦難と死、そして、復活、その後に続く聖霊降臨、預言は成就したのです。主は「最後の晩餐」のときに、「イエスはまことのぶどうの木」の話もして下さいました。話の中心は、主の喜びが私たちの内にあり、私たちが喜びで満たされることを語るものでした。そして、その話の中で「主の掟」も語られました。「互いに愛し合いなさい」の言葉です。本日語られた二つのことは「ケリュグマ」と「ディダケー」と呼ぶものです。ここに「ディアコニア」(奉仕)が加えられるなら、教会生活の基本となります。パウロ先生は、この三つの内実を生きられました。パウロ先生は回心後に長い「黙想の時」を持ちました。律法から福音へと「新しい命」へと招かれたのです。「黙想」「宣教」「交わり」が先生を変えました。すべてのことを主が教えて下さったのです。先生は信仰は命であって、知識や儀式ではないことを知ったのです。信仰は聖さを得る努力ではない。信仰は、「キリスト」を信じ、福音を受けることである。キリストの福音の喜びで満たされることだと知ったのです。ある神父様は聖体拝領の時、「あなたはキリストの御体」と言うと告白されました。私はキリストの体です。信仰はキリストの喜びが全てです。