6月23日(日)聖日礼拝

「聖 書」

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

(コリントの信徒への手紙 二 5章14~17節)

説 教 「新しく創造された者」

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」有名な御言葉です。しかし、その真意を理解している人は少ないかも知れません。というのは、「いえ、私はキリスト者となりましたが、未だ「新生」したという確信がありません。」と言われる方が多いからです。この告白は事実であろうと思います。しかし真実ではないのです。あなたは主を救い主と告白し、洗礼を受けられました。あなたは「新しく創造された者」です。創造は、あなたの領域ではありません。創造の業は神の領域です。それではこの言葉は何を語っているのでしょうか。パウロ先生は「キリストの愛」のゆえに、貧しさと苦しみを生きています。コリントの教会の人々は時が経ち、成長もしましたが、「旧い人」のままでいる人も多くいました。肉の見た目に惑い、偽教師に心を奪われる人が出てきました。パウロ先生といえば、相変わらず貧しく、困窮し、風采が上がりません。しかし先生の「貧しさ」は愛のゆえなのです。キリストの愛に倣う生き方をしているのです。コリントの人々はというと、未だ肉に従って生きているのです。ですから、本日の御言葉は、コリントの人々への勧告です。この後に続く「献金の勧め」もまた、これに連なる勧告となっています。先生は御自分の使徒としての働きの内実を語ることを通して、信仰者が目を向けるべき「キリスト」を指し示しています。私共が目を向けるべきは、人ではありません。肉ではありません。私共が、心を注ぎ、目を向かわなくてはならいお方は「愛の神」なのです。先週にてお語りしたファニーとヘレンは確かに「新しく創造された者」の命を生きています。「私は何と幸せな魂なのだろう」この言葉は新しく創造された者の告白です。私共は、この喜びが欲しい。誰もが願う思いです。では、如何にして手にすることができるのか。その方法については「聖霊聖会」にて語ると申しました。本日語ることは、その前段です。本日の御言葉は語ります。「キリストの愛を知った者は、もはや自分のために生きるのではなく、主のために生きる」と。この意味は、私共は自分の命よりも大切な「愛」を知り、その「愛のために」生きる者となるということです。それは自己中心という罪の中に死んでいた者が愛の関係性の中に入れられ、「新しく(神によって)創造された者」として生きていくということです。神に感謝しましょう。神は既に、あなたを「子」とされました。あなたは神と共に喜びを生きます。