「聖 書」
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているのではないか。だが、その一羽さへ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
(マタイによる福音書 10章26~33節)
「わたしの仲間であると言い表す者」
本日の御言葉は先週の続きです。マタイ書10章は「十二使徒の選任と派遣」です。本日の御言葉は、その派遣の先に何があるのかを語ります。派遣の先にあるものは「迫害」です。この事実はキリスト教の歴史を紐解くなら、よく知られたことです。しかしこの主イエスの言葉は過去だけのものではありません。この事実は現代においてもなお真実です。プロテスタントは「万人祭司」である以上、本日の御言葉は「主の証し人」であるすべてのキリスト者が心しなくてはならないものです。何故、キリスト者は神の愛(福音)を宣べ伝えているにも関わらずに「迫害」や「拒否」を受けるのでしょうか。それは世の人が「御国」(天国:愛の支配)を知らないからです。悪魔の支配を受けているからです。このことを具体的に語る為に「週報」に「マタイを弟子にする」の挿絵を入れました。マタイは徴税人であり、罪人の仲間でした。(マタイ9:9)主イエスはマタイの家で食事を共にしました。そこには罪人も大勢いました。これを見た人々は揶揄しました。主イエスは揶揄し、差別する人々に言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これを聞いていた人々の反応は如何なるものだったのでしょうか。この言葉が衝撃のあるものであったからこそ弟子たちの心に残って、「神の御心として」記録されたのだと思います。その衝撃の意味は「差別からの解放」です。「神の愛」です。私は、長く教師を務め、「同和教育」に携わりました。皆様に質問します。いじめが教室に起こった時に、まず誰に対応しなければならないか。いじめた側、いじめられた側、傍観者を含む全員でしょうか。答えは、教室の管理者である教師です。教師に「差別する心」がある限り、いじめの問題の解決はありえません。教師は全ての子どもを愛し、教室を差別のない「愛の教室」にする責任があるのです。神も悪魔に支配されている世を「愛の世界」に回復するために「独り子なる主イエス」を送って下さいました。主イエスは誰も差別しませんでした。すべてが愛の対象でした。それは勿論です。主は世を愛する神の全権大使として、神から派遣されて来られた方だったからです。私共は主を「仲間である」(主を神であり、愛の人であり、私の救い主である)と告白(同意)します。主と共に傷つく中に、愛の中に身を投じます。捕われ人に解放を告げ、御国(愛の支配)の証し人になります。