6月26日(日)聖日礼拝

「聖 書」

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
(ガラテヤの信徒への手紙 5章13~18節)

「霊の導きに従って」

教会は「わたしたち」です。ですから教会は、完全なものではありません。私達は教会を愛が満ちる完全なものにしたいと願います。しかしできないのです。それは本日のパウロ先生が語る如くに、「肉と霊とが対立し合っているので、自分のしたいと思うことができないのです。」の通りです。人は直ぐに救いを忘れるのです。これは他人ごとではありません。私も同様であります。私は召命を10代の時に受けました。しかし肉の欲に負けて、神から逃げました。キリスト者をやめた訳ではありません。しかし、自分の欲を優先したのです。マザーテレサの言葉を聞いて、貧しい者に仕えようとしましたが後回しにしました。献身より先に結婚を優先しました。私は神の声に耳を塞ごうとしましたが、無理なことでした。私は、ゆっくりと時をかけて献身の備えをしました。神と取引をしているかの如くです。神は時を待たれました。神は常に「霊の導き」を与えておられました。教諭時代に畠神父に出会ったこと。畠神父が御受難会の方であり、聖霊刷新の方であること。マザーを見に行った日のマザーの宿が畠神父の御受難会の「その場所」であったこと。すべては偶然ではありません。すべては必然であり、「霊の導き」です。私は若い日に「献身」を恐れていました。己がなくなる(自己欲求を叶えられない)と思っていたのです。しかし献身をなした今は知ることができました。献身(キリストがすべて)して起こる生涯は、「わたし」にとって素晴らしい世界であること。神の国と神の義を求めることを通して「必要のすべて」が満たされること。あらゆるすべてのことが「益とされる」こと。このことは真実であり、経験した者が知る確証です。パウロ先生はガラテヤの人々に「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と語りました。「キリストのようになること」は霊に導きに信頼し、従っていく時に「成る」のです。肉(自分)がある時、まことの恵みを得ることはできません。先生は福音の恵みから離れていく兄弟たちを愛し、「愛の実践を伴う信仰」を思い起こさせました。私共には聖化の力はありません。その力は主にあるのです。教会が「愛の共同体」になるために、霊に導きに従っていきましょう。本教会はその始まりから霊に導きに従い歩んで参りました。(一本の杖)私共はその継承者なのです。