6月29日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。…

しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

(テモテへの手紙二 4章6~18節)

説 教 「主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」

パウロは天の御国を見上げています。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。」パウロの語る「義の栄冠」とは何か。本日はその意を解き明かし、キリスト者の「遺すもの」について深く御言葉に示されましょう。キリスト者には5つの「冠」が与えられます。「朽ちない冠」(一コリント9:24)「喜び、誇りの冠」(一テサロニケ2:19)「義の栄冠」(二テモテ4:8)「栄光の冠」(一ペテロ5:4)「いのちの冠」(黙示録2:10)の5つです。ここで語る「冠」はステファノスでキリスト者の最初の殉教者である「ステファノ」の語源となる言葉です。ステファノは、その最期の時、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と語りました。彼は「冠」を受けたのです。その「冠」は「王としての冠」であり、神の言葉に忠実に歩み抜いた信仰者に与えられる「勝利者としての冠」のことです。パウロ先生も又、同じ「冠」を授けられようとしています。彼は「主が、かの日にそれ(義の栄冠)をわたしに授けてくださる。」とはっきりと語りました。「主が授けられる」は「直接未来能動」です。この意味は、「主が必ず授けてくださる。」ということです。パウロ先生は聖霊の働きによって確信が与えられています。先生は神の祝福を何故、「義の冠」と語ったのでしょうか。それは「罪」の対語が「義」であるからです。彼は「罪」とは神を信頼しない「離反」と捉えます。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)彼の言葉です。彼はその信仰の生涯の最後に「義の冠」を授かると言ったのです。この意味は罪の対が義である以上、「永遠の命を授かる」と語ったことと同じです。私共も同じ道を行きたいものです。彼は御言葉(キリスト)に忠実でした。神に信頼し、罪、サタンに打ち勝ちました。その姿はキリストの生涯に倣うものでした。私達キリスト者は愛する者たちに「遺すもの」はこの「天国の幸いの姿」です。それを遺すことができたならば、この世に「天国」を広げていくことができるでしょう。本日は午後に本教会の「創立100周年記念礼拝・記念会」が持たれます。先代牧師の髙橋初生先生も来て下さいました。歴代の牧師と聖徒たちが祈りと献げと主の恵みにより、教会を守られました。「主が傍にいて(共に立つ)」下さったのです。主が「力を与えて」下さったのです。聖霊の愛と力で満たして下さったのです。「聖霊の力の中にいた」のです。アーメン、感謝します。主は生きておられます。パウロ先生が死を前にしても希望を失わず、愛する人々に愛の言葉を遺されたように、私共も御言葉に日々励まされ共に行きましょう。