6月4日(日)聖霊降臨日礼拝

「聖 書」

また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。・・・ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の”霊”の働きであって、”霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体になるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

(コリントの信徒への手紙 12章3~13節)

説 教 「一つの霊によって」

本日はペンテコステ礼拝です。使徒言行録2章に記された「聖霊降臨」は教会の誕生を表しています。その意味は、教会は「聖霊」を受けることから始まったということです。ですから教会はイエス・キリストという教祖が残した教えを受け、信仰に励むというものとは全く違います。教会=エクレシアは「主に呼び集められた者の群れ」という意味です。この点を踏まえて「教会とは何か」ということを考えるならば、教会は美しい建物やステンドグラスではない、主から呼び集められた「信仰者の集まり」であるということがお分かりいただけるでしょう。それも「聖霊を受けた者」の集まりです。

 本日は教会の誕生日であるペンテコステ礼拝ですから、「教会とは何か」ということを本日の御言葉から特に聴きたいと願います。そして併せて、「教会が私達に残してきたもの」と「教会がなくしてはならないもの」は何かということもあわせて聴きたいと願います。御言葉に戻りましょう。本日の御言葉は私達信仰者には主から、それぞれ違う豊かな「賜物」が与えられていると語ります。それは私達の実感としても理解できることではないでしょうか。この霊の「賜物」は、「一つの霊」によって、私達に与えられたとパウロは語っています。「一つの霊」とは「聖霊」のことです。何故、私達は違う霊の「賜物」を主から与えられているのでしょうか。パウロは、それは多くの「賜物」により、「キリストの体」(12:27)を建て上げるためであると語っています。これは真理を表しています。しかし私達は、その「賜物」の違いを妬みの種にしてはいないでしょうか。ある牧師が「証し」で語っています。長い信仰生活を経て思うことは、兄弟姉妹同士で語り合う「証し」でさえ、競争の意識が働いたり、妬みさえ湧き上がることがあった。これはルカ書に記された「いちばん偉い者」(22:24)の話である、信仰者が陥る過ちと同じです。コリントの教会には「分裂」がありました。ですからパウロは本書の冒頭で、「一致の勧め」を語ったのです。教会の分裂は何をもたらしたか。それは、教友(弱い者や病人)の死です。(11:30)パウロは、この危機的状況に対して、「主の晩餐の指示」を与えました。そして、どんな時も「キリストを想い起こし」愛による一致を薦めたのです。私達の「違い」は麗しい「キリストの体」を建て上げるためのものです。そして、それは主の完全な愛により、既に成っています。教会はその姿をなくさず残していかなくてはなりません。