「聖 書」
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、…ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
(使徒言行録 2章1~11節)
説 教 「“霊„が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」
本日はペンテコステです。聖霊の恵みを受けましょう。蝋燭への点火は、後で行います。御言葉を御覧下さい。「五旬祭の日が来て」とあります。主の昇天後、弟子たちは主の御言葉通り、都で心を一つにして祈りを合わせ、聖霊を待っていました。そのところに、「聖霊が降る」場面です。「教会の出発」を語る場面でもあります。時は「五旬祭」(ペンテコステ)です。教会の祝祭のことでなく、ユダヤ教の「シャブオット」(七週の祭り)のことです。この祭りは「律法授与」、それも「再授与」の祭りです。聖書はルツ記が読まれます。この日に聖霊降臨があったことは偶然ではありません。神の計画です。律法は神のラブレターです。しかし人は律法(愛)を守ることができません。それゆえキリストは人となり、十字架と復活の神の業を成し遂げ、天に昇られ、主を信じる人々に聖霊を送ることを通して、救いと愛(律法)を完成されます。これは「エデンの園の回復」です。聖霊は神であり、交わりの愛そのもののお方ですから、人に聖霊が内住されるならば、その者は「愛そのもの」に聖化されていきます。私共は聖霊を受けるために「空の器」にならなくてはなりません。4節を御覧下さい。そのところに「聖霊」(ホーリースピリット)と「“霊„(御霊)」(ザスピリット)と書いてあります。「御霊」は「神御自身」のことです。私共は、「聖霊の洗礼」を受けたならば、「御霊」が自由に語り、「自分」は語らないのです。続きには、「ほかの国々の言葉で」話し出したとあります。原文は「ヘテログロッサ」で「異なる言葉」が直訳です。この意味は「自分の言葉と異なる言葉」の意味です。この異なる言葉は何を語るのでしょう。それは「神の偉大な業」を語るのです。この言葉は「神の言葉」です。「愛の言葉」です。この「異なる言葉」は神の愛と罪人の救いを語り、イエス・キリストを語ります。聖霊の内住は私たちを真の平安で満たし、救いと愛である「神の言葉」を私共の舌を通して、神御自身が隣人に語って下さいます。黙想をして祈り待ちましょう。「聖霊よ、来て下さい。真の愛にて満たして下さい。私を救って下さい。」と祈りましょう。(黙想と点火)。今、聖霊が来て下さいました。週報を御覧下さい。赤が基調の「聖霊降臨」の場面ですが、多種多様な人々がいます。皆が同じ方向ではありませんが、天を仰ぎ、聖霊の火を受けています。聖霊の火を受ける秘訣は天を見上げ、聖霊に心を開き、神に自分を明け渡すことです。五旬祭の日はルツ記が読まれます。ユダヤ人と異邦人の結婚の記事です。神の愛と救いは全てを一つにするのです。