7月14日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

 (エフェソの信徒への手紙 1章3~10節)

説 教 「神の豊かな恵み」

私共は「神の豊かな恵み」の中を歩んでいます。教会の中には「霊の満たし」(プレローマ)が満ちています。パウロ先生はエフェソ書において「教会」のことを書きました。この「教会」は地域教会のことではなく、普遍教会を意味しています。「教会」とは何でしょう。先生は何故、今「教会の意味」を伝えようとしているのでしょうか。それはエフェソの教会が大きくなってきたからです。(使徒19:26)もっと具体的に言えば、エフェソの教会は恵みが離れつつあったのです。主の恵みを忘れ、信仰のマンネリ化が進んでいたと考えられます。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」(ヨハネ黙示2:4)このことはどの教会にも起こりうることです。何故、エフェソの教会は発展したのか。それは「小さく」「弱さを覚える」群れであったからです。エフェソの教会を任されたパウロ先生の弟子であるテモテは、「弱い」者でした。いえ、すべての人は弱いのですから、「自分の弱さを知る者」と言うのが正しいでしょう。弱さを知る牧者であったので、聖徒たち(教会員)は牧者を支え、祈ったのです。その信仰は恵みです。私共キリスト者の生涯は「聖化」に向かいます。聖霊の内住と共に歩み、主イエスの光の中を主と共に歩む。このことは自分の罪に死に、砕かれた魂(弱さを誇る)を生きることを通して得られる「魂の喜びの人生」です。(週報参照)神が「教会」を建てられた目的は、「全歴史全宇宙を包含して「一つにまとめる」神の救いの働きを具現化する」ためです。一言でいうならば「万物復元」を実現するためです。教会は信仰者の単なる人間的な集団ではありません。神の恵みによりキリストにおいて生まれた運動体(ダイナミックス)が教会です。「天にあるものも、地にあるものも、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。」教会は、全てのものが満たされている方が、全てのものを満たしてゆく運動体です。神は創造前から神の計画の内に、私共を選ばれました。「キリストに従う者の共同体を造る」のが神の目的です。神は全能ですから、神が立てられた「計画」は必ず実現します。私共は弱さを誇りましょう。私共は「無力の時、キリストの力を生きる」のです。私共が語るキリスト者の「輝かしい恵み」は私共の「受け取る力」(委ねる信仰)と同義です。私共はキリストの愛に根差し、天の霊的祝福を受けた「喜びの人生」を共に歩みましょう。神の計画である愛の共同体を共に生きましょう。