「聖 書」
今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
(コロサイの信徒への手紙 1章24~28節)
「内におられるキリスト」
11日(月)に「宣教祈祷会」が持たれました。担当教会の松浦牧師が奨励をして下さいました。その小説教の中で、師は本日の御言葉の(1:27)を引用され、「私たち「土の器」の内におられるキリスト」と語りつつ、御自分が「土の器」であるがゆえに、キリストが常に働かれ、「恵み」を与え続けて下さったので牧師を続けてくることが出来ましたと証しされました。私は大変励ましを受けました。胸が熱くなりました。「土の器」は(二コリント4:7)からの引用です。キリスト者がよく用いる言葉です。この言葉は人は土の器の如く脆く何もできないということを語るものではありません。自分が神の前に「土の器」であるという自覚を持つがゆえに、自分の内なる内住のキリストが働かれ、キリストの働きを為していくことが出来るという意です。本日お配りした「活水」と「週報」にも、その証が記されています。三浦綾子先生の写真は先生の書斎です。先生は「この土の器をも」を上梓されています。その中で光世氏が先生に語る言葉「綾子、神は私達が偉いから使って下さるのではないのだよ。聖書にある通り、吾々は土から作られた土に器に過ぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は必ず用いて下さる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように。」この謙遜を共に生き続けることを通して、御夫婦はキリストの働きを為すことが出来ました。この写真を提供した横に写る私の師匠である仲村先生もまた同じ道を行かれました。「活水」に記された説教、バックストン師の証し「潔めを見せた」も同じことを語っています。私共は如何なることを通して、同じ道を行くことが出来るのでしょうか。その答えが本日の語る御言葉です。先週の続きの御言葉です。パウロ先生は「与えられた務め」を語ります。その務めは「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」ことです。この務めのことをパウロ先生は「喜びの労苦」であるとも語っています。この意味は「キリストの体」を建て上げるための労苦のことです。私共は教会です。しかし未だ愛そのものである「キリストの体」になっていないのです。今もキリストは愛が完成されるために働いておられるのです。私共はパウロ先生から学びましょう。先生はキリストの体とさせて頂く為に、「御言葉に聴きましょう」「内住のキリストに結ばれましょう」と諭されました。私共は互いに「愛」の故に仕え合いましょう。