「聖 書」
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
(ローマの信徒への手紙 6章3~11節)
説 教 「キリスト・イエスに結ばれて」
私共キリスト者は、「キリスト・イエスに結ばれて」生きている者です。この命は神により、人生を支配されているという意味ではありません。キリスト・イエスに結ばれて生きるとは、「全き自由」を与えられているという意味です。本日の御言葉の後に続く、6章の中ほどに、「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(6:17)とあります。パウロは一貫して「福音の本質」を本書にて語りぬいています。先週、私は「信仰義認」の話をしました。私は罪ある自分を認め、神に救いを求め、神の救いであるキリストを信じることを通して、魂の救いを得たということも証し致しました。皆様の多くは、私はそんな罪ある自分を知らないと言われるかもしれません。しかしパウロは本書で語ります。人は「罪に仕える奴隷」であると。また、「罪が支払う報酬は死です」とも語っています。私達は認めなくてはなりません。自分の人生を苦しめるものの正体が「罪」であることを。パウロは7章では、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(7:15)と語りました。この罪に支配される人生は、「全き不自由」ではないでしょうか。このパウロの語る言葉ならば罪の意味を首肯される方もおられるでしょう。しかし事柄の本質は更に深いところにあります。私共は自分の罪を軽く考える癖があります。私共の罪が軽いものであったならば、御子が世に来られることはなかったでありましょう。ローマ書はパウロの「弁明の書」とも呼ばれています。何に対する「弁明」か。それは正しい「福音理解」に対する「弁明」です。パウロはキリストを信じる先に何が待ち受けているのかということをローマの信徒に対して、正しく福音理解を告げているのです。パウロは6章において信仰者の「聖化」を語っています。神を信じる者は「聖さ」を求めるようになり、罪を憎むようになります。そのことをパウロの言葉で語っているのです。本日の御言葉でパウロは何度も、洗礼によって「キリストの死にあずかる」と語っています。この「あずかる」は(コイノニア)ではなく、(中に入って)という前置詞が使われています。キリストの死にあずかるとは、自分の罪に死ぬことです。しかし、それ以上に「キリストの死の中に入り」、神の栄光である復活を知ることが意味されています。信仰者は罪に死に、復活に生きる者です。