「聖 書」
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
(マタイによる福音書 10章37~42節)
説 教 「必ずその報いを受ける」
マタイ書10章「十二使徒の選任と派遣」の主の結びの言葉です。主イエスの厳しく聞こえる御言葉ですが、この御言葉は以前にも申し上げたように、「愛の言葉」です。私共は「主の弟子」ですが、「世の人」でもあります。「世の人」は「自己中の人」とも言えます。37節に記された「わたしよりも父や母を愛する者は」の「愛する」は(フィロー)です。「好き、好む」の意味です。自分が主体となる「愛」のことです。先週に申し上げたように、「キリストの弟子」は愛の御国建設のために世に遣わされていきます。そこには「迫害」があるのです。家族からは揶揄されたり、心配されたりするかもしれません。その時に、家族との関係を保ちたいとの思いが支配するとき、「主の道(十字架の道)」を行くことを諦めるかもしれません。その思いを見越して、主は「愛の言葉」を伝えたのです。私共「主の弟子」は自己中に死に、自分の命を「聖なる供え物」として主に捧げるのです。そうする時に、私共は「真の命(永遠の命)」を得ます。そして、家族との関係も又、「新しい祝福を得た関係」へと変えていただけるのです。互いに仕え合う関係です。主の母マリアも、その命を生きました。私は先週の日曜日に「動脈解離」を発症しました。幸いに一命を得ましたが、苦しみの中、何もできなくなる自分を想像し、「全てを神に委ねる」思いを祈りの中で神に伝えました。その時に、はっきりと「復活の命」を確信しました。たとえ今、死んでも「永遠の命」を得ていることを示されたのです。神は愛です。皆様も、この今という只中を「神の愛」にて生きています。主は本日の結語で、「この小さな者の一人に」と言われました。「この」が差す言葉は「わたしの弟子」です。私共は神の前に「小さな者」なのです。愛は「小さな者」には感知できるのです。「冷たい水一杯」は、人によって、受け取り方が違うものでしょう。しかし「小さな者であるキリスト者」にとって、キリスト者である自分を受け入れられた喜びを感じられる「行為」です。自分の証しが受け入れられ、キリストを受け入れ、神を受け入れた者の行為です。神は、その行為を喜ばれ、その人を「永遠の命」へと招かれるでしょう。それが「必ずその報いを受ける」の意味です。預言者を受け入れるは「神の言葉を受け入れる」であり、正しい者を受け入れるは「神の義(救い)」を受けいれる者です。私共は主にありて報いを受ける者です。