「聖 書」
今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
(コロサイの信徒への手紙 1章24~28節)
説 教 「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」
神は私共を導いておられます。全ての人をキリストへと導かれているのです。これは今までは「秘められていた計画」でした。主イエス・キリストが救いを完成された現在は、「恵みのみ」が世界を覆っています。にも関わらず、未だに救いを手にしていない人々がいます。キリストの救いを手にしても、教会から離れていく人々もいます。これは初代教会時代から続いている、キリストの体の現実です。キリストの体である教会は痛みを抱え、苦しんでいます。全ての人々に「まことの救い」が及んでいないからです。私は先週に、自分の弱さが今もあると申し上げました。これは「きずのある」状態です。しかしキリストは私を今も癒し続けて下さっています。神の愛の現実です。前句を御覧下さい。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめることのない者としてくださいました。」(1:22)私には「きず」があるのです。しかし神はキリストゆえに私と「和解」して下さいました。この「和解」は「救い」ですが、この救いは「聖さ」を与え、「きずのない」癒しを与え、「とがめのない」赦しを与えるのです。この「和解」は「キリストの内住」が、この現実を与えます。しかし、何度も言います。救いを得ていない人は勿論、救いを得た人でも、キリストがいない、キリストから離れる人がいます。神の痛みであり、神の苦しみです。何故、人はキリストから離れるのでしょうか。それは未だキリストに捉われていないからです。「土の器」(Ⅱコリント4章)とされていないからです。(2022.7.17)パウロ先生は2章において、「わたしが、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」と訴えています。この労苦は次節に続く言葉が、何故であるかを語っています。「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」これが答えです。先生は、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」と言われました。「キリストの苦しみを身をもって満たす」とは「キリストの内住」ゆえの、キリストと一つであるが故の苦しみです。「失われた羊」は神の痛みであり、苦しみです。私共も又、キリストの体です。キリストと共に苦しみ、世にキリストを伝え、愛の共同体を共に致しましょう。