7月21日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。

「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

見よ、このような日が来る、と主は言われる。

わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。

王は治め、栄え

この国に正義と恵みの業を行う。

彼の代にユダは救われ

イスラエルは安らかに住む。

彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

 (エレミヤ書  23章1~6節)

説 教 「主は我らの救い」

先週はエフェソ書を通して、「教会の意味」について、御言葉に聴きました。「教会」は「召し集められた者の群れ」です。教会に招かれた者は、自分が「弱い」存在であることを知っています。この弱さは誇って良いものです。「この弱さ」ゆえに、常に私共は主に目を注ぐ者とされています。「弱さ」は「聖潔」へと続く資質です。週報を御覧下さい。「主の牧場」です。全ての羊の眼が主に注がれています。全ての羊が憩うています。主の右の手は、一匹の羊に食物を与えています。(撫でているのかもしれません。)左の手は十字架をお持ちです。主が羊の世話をされているモザイク画です。この画は本日の御言葉を示しています。メシア預言の画です。本日の御言葉は、捕囚前夜です。ユダの王たちはエレミヤの預言に耳を貸さずに、背信を続けます。エレミヤは王たちに「主の滅び」を宣告します。しかし、それと共に「回復」(メシア預言)も語るのです。悪い牧者(王たち)のゆえに、国は滅びる。ゆえに「主自ら」が牧者として現れ、イスラエルを救うと預言されました。1節に「主の御告げ」とあります。エレミヤは託宣したのです。エレミヤは、ここで「メシア預言」を語ります。ダビデの子孫である「正しい若枝」が、散らされた羊(残りの者:レムナント)を集め、イスラエルを回復させるという預言です。この預言は「イエス・キリスト」のことを勿論語っています。ですから週報の画は「教会の姿」でもあります。本日の御言葉の最後の節に、「主は我らの救い」(イエス)とありますが、この言葉は直訳すると、「主は我らの義」となります。つまり、ここで語られる「救い」は、自分には義は無くとも、主が私の罪を赦し、「正しくない私を義として下さる」という義です。十字架の贖罪ゆえの恵みの「義」であり、「救い」です。本日の画は、そのことを示しています。この救いは「万物回復」にまで至ります。これは「神の秘められた計画」なのです。故に教会は、この救いを世に告げ広める「使命と責任」を身に受けています。私共は主を信じましょう。主に全幅の信頼を寄せましょう。私共は教会で、「憩い」「安心をし」「平安を与えられ」「満足し」「喜びに満たされる」集い(交わり:コイノニア)をすれば良いのです。エレミヤは「涙の預言者」と言われました。キリストのエルサレムを前にした「涙」と同じです。神の滅びゆく魂に「痛み」を感じておられる涙と同じです。神は全ての人が「主の牧場」に入ることを願っておられます。