7月23日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

(マタイによる福音書 13章24~30節)

説 教 「両方とも育つままにしておきなさい」

主イエスは「真の平和の王」として世に来られました。まず選民を救いに来られたのです。しかし「彼ら」は、主を十字架に架けて、殺してしまいました。預言の通りでした。私共も決して「彼ら」を非難できません。誰もが神を殺すのです。自己を神として生きる者なのです。本日の御言葉を御覧下さい。「天国の奥義」の話でありながら、「毒麦(ジザニオン)」の話です。本書11章において、洗礼者ヨハネが「来るべき方は、あなたでしょうか。」と主に問うています。メシアを指し示した者が、何故ここにきて揺れ動くのでしょうか。それは主が公生涯の中で、「悪を根絶やし」にされなかったからです。いや、それ以上に「罪人」の中に入り、交わりまで為していたからです。ヨハネは自分の知る「メシア観」と、主イエスのされることが合わなかったのです。私共はどうでしょうか。私共も又、神を自分の枠の中に落し入れ、悪の蔓延る世を見て、神を批判することはないでしょうか。本日の「たとえ」の解説は(13:36~)に記されています。私は以前に、その部分を含めて解き明かしを致しました。「神の忍耐と裁き」について説教を致しました。その時は、その解き明かしで良かったと思います。しかし時が経ち、キリスト者として成長した皆様には、更に深い「奥義」が提供をされるべきだと示されました。(13:36~)は多くの学者が「教会の解釈」としています。本来の「たとえ」の意図を「裁き」に重きを置く解釈に編集したのです。「毒麦のたとえ」の本来の意味は、以前に語りました如くに、「裁きの遅延と神の愛」です。「両方とも育つままにしておきなさい」主は愛をもって、育つのを待っておられるのです。「敵(悪魔)」の蒔いた種は、「毒麦(テアーズ)」になります。(テアーズ)は「人に計画的に危害を加える」の意です。「御国の子」である主イエスの蒔かれた「種」(天国)は教会の中で「毒麦」と共に育ちます。その時に「毒麦」を根絶やしにすると「小麦(ウィート)」も共に抜いてしまうのです。「毒麦」があっても共に育つときに、主の私共に対する愛の配慮(細やかさ)を知る機会になります。「真の愛」を主の姿から見ることが出来るのです。また「毒麦」に対する「抵抗力(力)」が育ちます。神の愛は必ず悪に勝利する「栄光」を拝することもできます。本日の「天国の奥義」は深淵です。私共の現実の中に如何に悪が蔓延こることがあっても、天国は失われることは絶対にないと主は語られたのです。