7月24日(日)聖日礼拝

「聖 書」

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けして取り除いてくださいました。

(コロサイの信徒への手紙 2章12~14節)

「キリストと共に」

先週の祈祷会にて、マタイ書の「「種を蒔く人」のたとえ」から学ぶ機会が与えられました。このたとえの結びに、良い土地に落ちた種は実を結んで、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」と記しています。底本はマルコ書です。マルコ書では良い土地に落ちた種は育ち、実を結び、「あるものは三十倍、六十倍、百倍にもなった。」とあります。何故、マタイは増加の書き方の方が勢いがあるにも拘わらず、減少の書き方に変えたのでしょうか。それは、たとえを聞く弟子達が不安(自分はどこに落ちた種か)になることを知りつつ、そのような小さな者であると自覚のある弟子達に、主が「あなたがたは見ているから幸いだ」と語り、弟子達の小ささの上に働く「神の恵みの幸い」を語る為に、「種の実り」は、どれも「神の恵み=幸い」であることを語りたかったからであると思うと解き明かしを致しました。自分の小ささを思う者は「神の御言葉」を受け入れている者です。私は以前、教会生活を長く続けられる者、人生の最期まで信仰生活を続けられる人は「謙遜な人」(小さき者)であると証ししたことがあります。「小さき者」は御言葉を受け入れ、その自分の「行動」を顧みる者です。信仰を顧みる者であるから「不安」を持つのです。本書のコロサイは逆に「哲学」によって誤りの自信を持っていたのです。以前、私は同じ御言葉を通して(2019.7.28参照)、教会には二つの危機があると申し上げました。内側から来る「傲慢」と外側から来る「欺瞞」です。神は私共を「まことのキリストの体」に造り上げるために今も、「愛の充満」を注ぎ続けておられます。私共は神の力を信じて「洗礼」を受けました。私は死にました。私は「キリストと共に復活」させられたのです。私共の頭はキリストです。私共は「献身」(活水「献身の真の意味」別紙)すれば良いのです。私共はしっかりと頭であるキリストに付き、頭の働きに身を委ね、節と節、筋と筋である兄弟姉妹としっかりと結び合わされ、「教会」を神の愛によりて支えるのです。(神の恵み=幸いです。アーメン)私共は「神に育てられ、「愛の共同体」へと成長させてもらえるのです。」(2:19)私共の小ささは関係ありません。福音の「種」さえ持っていれば、成長(愛)は神が育て成し遂げられます。私共にとって最も大切なことは「キリストと共に」永遠の命の世界を生きることです。赦しの中を共に歩んで参ります。