7月28日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは目をあげ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

(ヨハネによる福音書 6章1~15節)

説 教 「この人たちに」

「この人たちに」とは私達のことです。愚かで鈍く、自己中心な私達の姿が「この人たち」です。大勢の群衆はイエスのしるし(奇跡)を見て、イエスのところに集まってきました。主は、「その人たち」を見て(マルコ6:34深く憐れんで)言われました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」これは弟子たちの信仰を飛躍させるための「試み」の教育の問いでした。主は御自分が「今からすること」を知っておられました。主は、民数記11章の出来事(マンナ)や列王記下4章のエリシャの奇跡を「しるし」としての業を行うつもりでいたのです。しかし弟子たちは鈍く、不信仰で、御言葉が今も真実であることに眼が開かれていませんでした。主御自身が「御言葉そのもの」であることを理解していませんでした。弟子の答えは、「足りないでしょう」「何の役にも立たないでしょう」だったのです。私共の姿です。「こうあればよいな」とか「これができたらな」と思っても、目の前の現実に、できない理由を見つけるのです。「主の御旨」を聞いても、できない理由を探すのです。「五千人の供食」は、本当にあった出来事です。本当の出来事であったので、四福音書に記録され、「アガペーの食事(聖餐)」と重ね合わされたのです。弟子たちは「五千人の供食」を目の当たりにして、主の信仰と、主御自身が「命のパン」であることが啓示されました。彼らは、主の奇跡を「しるし」と捉えました。「五千人の供食」は「奇跡物語」ではありません。「しるし物語」です。私共も又、主の奇跡をパフォーマンスとして見るのではなく、「しるし」(栄光の啓示)として見ることが大切です。主の奇跡は今もあります。聖書に記された奇跡は今もあるのです。神は今も生きておられるからです。その奇跡はどこにあるのか。それは「御言葉」(主)にあります。皆様は御言葉の数をご存じでしょうか。旧約聖書39巻、929章23214節、新約聖書27巻、260章7959節です。(全巻通読96時間(4日)でできます。聖書協会)本日の「物語」には、ヨハネ書にのみ「欲しいだけ分け与えられた」とあります。人によって「必要な分」「満腹の量」が違うからです。残ったパンの屑は「無駄にならないように」(滅びないように)集められました。十二の籠がいっぱいになりました。もうこれは主イエスが「分け与えられた」体(パン=御言葉)の意味であることは明瞭です。十二弟子たちの魂は御言葉で満たされたのです。私共の宣教の源は御言葉です。