7月3日(日)聖日礼拝

「聖 書」

しかし、このわたしにはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

(ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節)

「あなたがたの霊と共に」

本日の御言葉は、私共の教会の進むべき道を示しています。それは先週に語りました「霊に従って生きる」と同じです。パウロ先生は本書の結びに、「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」と祝福されました。先生は何故、「あなた」と言わずに「あなたがたの霊と」と言われたのでしょうか。それは教会は「愛の共同体」であるからです。そして教会は「あなたがたのもの」ではないからです。私共はキリスト者にされた今も、「肉の思い」「己の計画」を断つことができないのです。これはガラテヤの人々も同じでした。先生が迫害の中を「十字架のみ」に命を賭けて宣教する姿(伝道旅行)を見て、ガラテヤの人々は信仰を得て「教会」を建てました。そこに異端ユダヤ人キリスト者が彼らを惑わしたのです。ガラテヤの人の中に異端者に靡く者が出て来ました。教会から福音が失われました。パウロ先生は「教会」は聖霊の働きによって導かれるのだ、神によって建てられるのだ、十字架の死と復活の神の愛が「土台」なのだということを強く語りました。先生の愛の言葉です。「わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」この先生の強烈な愛は、本教会の高橋文蔵牧師の強い愛に連なるものです。先週に引き続き「一本の杖」からの証しを通して、本日の御言葉の神髄を具体を通して知りたいと願います。文蔵牧師の葬儀の日、盟友であられた西村氏(大阪女学院)が弔辞を述べられました。「人が落ち目の時に受けました御恩と云うものは、ほんとうに身に滲みる思いでございます。私は万国博は落ち目ではないと思うのでありますけれど、あの万国博が真にせまる状態の中で、先生から受けました励ましと御好意を、終生忘れることが出来ません。」と語られました。反万博の嵐が吹き荒ぶ中で、文蔵氏は伝道の為に命を賭けられました。また追憶の中で西村氏は「先生は神様のためにはどんな事でもする。」と述べられ、「礼拝が終わるとやや長い報告をなさる。この日礼拝に出席している全部の人に短く触れられる。」と先生の牧会者としての細やかな愛情をも証ししています。この愛情は晩年の週報に記された「個人消息」でもよく知ることが出来ます。同じ時代を生きた仲村氏(聖書協会)もまた、「一方的な愛とご親切、そして祈りに支えられて私達が守られてきたのだ」と追憶されました。霊は愛です。