「聖 書」
しかし、このわたしにはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。
(ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節)
説 教 「大切なのは、新しく創造されることです」
「尼崎竹谷教会創立100周年記念」の時が、主の祝福を受けたことに感謝申し上げます。また、ここに集う御一人御一人がホストの働きをしていただいて、有難うございました。「記念礼拝」の時に説教をしていただいた坊向輝國先生が最後のまとめの言葉を語るのを忘れていたと残念がられていました。その中身は先生の説教全体で「既に」語られていたことです。先生の説教題は「教会のいのち」でした。教会のいのちは「臨在」である。「臨在」は祈りの中にある。文蔵先生には、その「祈り」があった。この「教会のいのち」こそを継承して下さいと、最後に語らせていただくつもりであったと言われたのです。説教の全体もそれを語り、会全体もそれ「臨在」を語るものであったと告白をします。会に集う皆様が「神の祝福」を受けられたことを私は信じます。これは臨在の業です。神の愛の業です。このことを別の表現を用いるならば、会に集う皆が、集う人を愛し、教会を愛する心を持って交わりをしてくださっていたことも又、神の愛の業です。先週、「二テモテ書」が読まれました。パウロ先生のテモテに遺す「最後の言葉」です。パウロは信仰の生涯を最後まで走り抜き、「義の栄冠」を受けるばかりであると語りました。パウロが「天国の住人の姿」をテモテに語る場面です。では、「天国の住人の姿」とは如何なるものでしょうか。一言で語るならば「柔和」です。週報の挿絵を御覧下さい。主イエスの「エルサレム入城」の場面です。主は「ホサナ」と迎えられますが、主は「受難」に向かうことを覚悟しての入城でした。「まことの王の入城」です。その姿は「柔和そのもの」です。天国の住人の御姿です。前節の(6:1-2)を御覧下さい。「互いに重荷を担いなさい」や「キリストの律法(互いに愛し合いなさい)を全うすることになる」は「天国の住人の姿」を語るものです。パウロ先生は「十字架のほかに誇るものがあってはならない(自らを誇るな)」「新しく創造されなさい」と手紙を締めくくられました。この道は「“霊„に導かれて生きているあなたがた」に告げるものです。「柔和」は偽善ではありません。「柔和」は十字架に憩う者が味わう「臨在」から得る「力」であり、「平和と憐み」が包む「神の愛」が源です。私共は「記念の時」を祝福され、「新しい出発」が主より与えられました。私共は「キリストのみ誇り」「十字架を誇り」「聖霊に満たされ」「“霊„に導かれ」生きていきます。そこには臨在があり、平安があり、力があり、愛があります。私共は「新しく創造された」のです。力強く「愛の使徒」の道を行きましょう。