7月7日(日)聖日礼拝

「聖 書」

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしに内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(コリントの信徒への手紙 二 12章7~10節)

説 教 「弱いときにこそ強い」

「弱さを誇る」「弱いときにこそ強い」いずれもキリスト者が慣れ親しんできた御言葉です。「聖霊聖会」においても先生方は「弱さ」を語られました。そうであるのにと言って良いと思いますし、そうであったからこそ「祝福」に満ちた聖会となりました。私は会の中で「魂の喜びを得る方法」について語りました。魂の喜びを得る方法は「赦されること」(癒し)「愛を受ける」(恵み)「互いに愛し合う」(祝福)という神の恩寵に自分自身を「明け渡す」ことであると語りました。本日の御言葉は、その神の恩寵により得た「魂の喜び」を失わないための秘訣です。パウロ先生は「主から示された事」とし、そのことを語っておられます。先生は主から素晴らしい啓示を受けました。私共の言う天的な「魂の喜び」です。にもかかわらずに、主は弱さ(とげ)も与えられたと言われます。ただでさえ風采が上がらず貧しいのに、なおも「弱さ」まで見せる。「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって…」(ガラテヤ4:14)先生は離れ去らせて下さるように主に願いました。主の応答は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」でした。先生は御言葉に「明け渡し」をされました。「聖め」体験です。多くのキリスト者が「魂の喜び」を失わないために、経験してきた、「聖め」の体験です。(「真実」川﨑牧師)先生は「キリストの力がわたしの内に宿るように」と言われました。その為に「弱さを誇る」と言うのです。「弱さを誇る」弱さは惨めさではないのでしょうか。弱さ、衰え、失敗体験、病、障害、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まり等を誇ることなどできないのではないか。キリスト者は「弱さを誇る」ことができるのです。後に続く御言葉にはこう続きます。「(わたしは行き詰まりの状態にあっても)、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」「弱いときにこそ強い」を文脈に沿い、意訳(直訳)すると、「(わたしは)無力の時にこそ、(キリストの)力がある」となります。西尾師は「自分の弱さこそを誇る」と言われました。松浦師は「信徒がリバイバルを起こす」と言われました。私(西川)も「お前がするな」と言われました。川﨑師も「覚悟され」、バックストン師も「全てを捨てて」、日本に献身されました。私共の明け渡しの体験は、神の力を経験する「聖め」の喜び体験となります。