「聖 書」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。…わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
(ヨハネによる福音書 6章41~51節)
説 教 「世を生かすためのわたしの肉」
「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と主は結びで言われました。これは意訳です。直訳ならば「わたしの肉は、この世の命です。」となります。その意味を汲みながら意訳し直してみると、「このわたしが与えようとするパンは、人の世の「いのち」のために(人の世を生かす(ゾーエー)ために)、現にここに来ている(与えられる)。」となるでしょう。これは深い悟りが必要です。しかし主のもとに来る者は、神御自身が教えて下さるのです。45節にて語られた主の言葉は、イザヤ書54章「新しい祝福」の預言の成就です。(2012.8.12参照)私共は、悟ることができます。主が世に永遠の命を与える「いのちのパン」であることを悟れるのです。しかし主のなさった「しるし」を見て集まってきた群衆らは、悟ることができませんでした。何故イエスは自分のことを「天から降って来た」などと言うのか。私達は、イエスのことを「知っている」。彼らはイエスを信じず、主イエスのもとに来ることがありません。彼らは「つぶやき始めた」(ゴッキゾウ)とあります。古からの不信仰な民の姿と同じです。不信仰は自らを救うことができません。これは私共も又、気をつけなければならない事柄です。今年は有志で「御殿場研修会」に参加してきました。新しい体験でした。具体的な良い交わり(コイノニア:命のパンを分かち合う交わり)に「永遠のいのち」はあり続けることを知る機会となりました。この経験は、私共の教会の「交わり」もまた同じです。私共の主のもとに集められた者の「喜びの交わり」の中に、永遠の神を見、この世が主の愛によって「永遠に生きる」ところであることを悟ります。主イエスの「いのちのパン」を食すとは、主イエスが分け与えて下さった「パン=肉=愛」によって、具体的な命の力を頂くことです。研修会に参加され、食事をし、休み、寝て、いのちのパンを日々に頂くという体験は、その後の人生を「永遠に生きる」世界へ導きます。共に参りましょう。私共は幸いな永遠の命を生きる神の子です。私共、主を信じる者は、不信仰な者が経験することのない、「恵みから恵み」へと進みゆく「平和」を経験します。群衆は何を求めていたのでしょうか。神は、今も私共を救う為に「引き寄せて」(ヘルクエイン)下さっています。神は全ての人を滅びの縄目から救う為に、御子の「肉」を与えられました。神は全ての人の必要の満たしを与えられる「永遠の愛の神」であられます。