8月12日(日)聖日礼拝

「聖 書」

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。…わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

(ヨハネによる福音書 6章41~51節)

説 教 「生きたパン」

 本日の御言葉のアウトラインについては、以前に解き明かしを為した説教を参照下さい。(2012.8.12参照)これは、その時の説教でも語り、先週にもお語りしたことですが、ユダヤ人たちは「つぶやき」始め、躓いています。何に躓いているのか。それはイエス様に出会いながらも、イエス様を「命のパン」として見ることができていないことです。本日の御言葉を御覧下さい。(6:44)「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」これは、(6:35)「わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。」に続けて語られている言葉です。では、この個所は「選び」が語られている場面なのでしょうか。それは違います。この個所で語られていることは、人々の「不信仰」です。ここでは「信仰」とは何か、「神を信じるとは如何なることであるか」ということが語られているのです。神を信じるとは「キリストを信じる」と同義です。群衆は、ユダヤ人は、神が遣わされた「キリスト」を見ても信じることができずに、キリストに「行く」ことができません。彼等は「命のパン」を食べることができないのです。このことは彼等の信仰が、真実に「神の招き」(引き寄せてくださっている)に応えるものではないからです。このことの意味については、次回の「聖会」で詳しくお語りします。この真理は簡便に語ることはできません。もし一言で語ることが許されるならば、神は「対話的人格を持たれる神」であるという理由がその意味です。後は聖会をお待ち下さい。さて、本日の御言葉は人々の「不信仰」だけが語られている場面ではありません。当然に「福音」が語られています。(6:51)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」この御言葉は福音でありましょう。本日は、この御言葉を最も大切に聴きたいのです。私達キリスト者は「キリストのもとに来た者」です。毎週ごとに「命のパン」(キリストの肉)を戴いている者です。それでは、その恵みについて、その意味を深く弁えなければなりません。聖餐は儀式ではありません。聖餐は「生きたパン」であるキリストを戴くことです。主は御自分を供え物として神に献げられ、その神の愛を信じる者に永遠の命を与える保証をされました。私共は、その愛に応え、キリストに倣う者となり、愛によって歩むのです。その信仰者の歩みが「世を生かす」ことになるのです。