「聖 書」
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
(マタイによる福音書 14章22~33節)
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。…エリヤは洞穴の入り口に立った。…「エリヤよ、ここで何をしているのか。行け、」
(列王記上 19章9~13節)
説 教 「風は静まった」
先週は「平和聖日」でした。今週には「終戦記念日」があります。日本は今、「平和」を思う時を過しています。「平和」とは何でしょうか。戦争が無い状態のことでしょうか。戦争ならば今も世界であり続けています。嵐は止むのでしょうか。本日の御言葉は「嵐の場面」です。私共は、本日の御言葉を通して、「まことの平和」について知りたいと願います。「まことの平和」は私共の心の中にあります。それは「信仰」です。建前信仰ではなく本音信仰にです。「まことの平和」を手にするためには、偽の信仰では役に立ちません。本物の信仰が必要です。では本物の信仰とは何でしょう。それは主イエス御自身です。弟子たちは「強いて」舟に乗せられ、強い風に悩まされました。これは主との「分離体験」であり、「絶望体験」です。この解き明かしは以前にもお語りしました。(2020.8.9)弟子たちは「満腹」(五千人の供食)していました。その時に「すぐに」絶望体験が待っていたのです。弟子たちは安心していたでしょう。油断していたかも知れません。主イエスのおられない時に「嵐」に出会い、己の無力さをいやというほど思い知りました。本日は、もう一つ御言葉を用意致しました。「ホレブ山のエリヤ」です。週報に掲載したエリヤは、絶望した裸の姿で寝入る、彼が描かれています。(「荒野のエリヤ」レイトン)エリヤは聖書の中の偉大な人物です。多くのバアルの預言者と闘い、勝利を収めた者です。にも拘わらず、悪妻イゼベルの執拗な手に恐れをなし、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」と弱音を吐き、荒れ野に逃げたのです。挿絵は、その場面です。しかし神はエリヤを見捨てません。御使いを送り、勇気と力を与えました。彼は「ホレブ山」に向かいました。モーセの山です。エリヤは「信仰の原点」に帰ったのです。彼がホレブに着いた時に、神は言葉を掛けます。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」この言葉は、二度同じ言葉で語りかけられています。使命を思い起こさせる為です。エリヤは風、地震、火の中に神がおられないことが分かりました。神は「静けき声」の中におられるのです。彼は新たな「働き」を与えられました。新たな王と自分の後継者に油を注ぐことです。彼は立ち上がりました。未来に希望が与えられました。主は常に共にいて下さる事が分かりました。弟子達も又、どんな絶望の時でも、主が共におられるなら風は静まることを知りました。