8月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

(ヘブライ人への手紙  12章1~4節)

説 教 「イエスは、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」

天国を造り上げていくことは簡単な事ではありません。クリスチャンには主と共に天国を造り上げていく「使命と責任」があると申し上げてきました。喜びの仕事でありながら大変な事業なのです。私共には勿論、このことを為す力はありません。私は、そのことをよく知っています。であるからこそ「十字架」が必要であり、有難いのです。本日の御言葉を御覧下さい。この有難い十字架が「恥」であると語られています。私共にとって「尊い十字架」は恥の象徴でありました。主イエスは、私共の罪の贖いを成し遂げるために、恥の「十字架の死を耐え忍ぶ」道を行かれました。この言葉の前には「喜びを捨て」という言葉が付されています。「捨て」は意訳です。(アンティ)という前置詞の訳語です。直訳をすれば「~の代わりに」となります。「世の栄光と喜びの代わりに」「天の喜びの代わりに」の意味に解釈するならば、「捨て」でも良いでしょう。他の聖書の訳出の多くは、「喜びのゆえに」となっています。この意味は自分が得する褒美が待っているがゆえにという意味ではありません。この意味は旧約預言の(イザヤ書53章11節)「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」の「ゆえに」です。主イエスの「十字架」は世に天国を造り上げる為に罪のない者が通らなくてはならなかった「一筋の道」だったのです。この道は極みの「神の愛」です。この道しか救いはありません。私が牧師になる事を恩師である仲村先生に告げた時、先生は御自分が大切にしている御言葉を私に下さいました。「お前の歩む道を一筋にして、主に望みを置け。」(シラ書2:6)です。これは続編に記されたものですから、別の箇所で語るならば、(箴言3:5-6)「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」です。私は頑固者です。「專一」という名前がぴったりです。しかし「專一」は頑固の意味ではありません。仲間の牧師先生に「良い名前ですねぇ」と言われたことがあります。この先生の語られた意味と恩師の私に託した思いは同じであると私は受け取っています。主の成し遂げられた天国の道を「一筋」に歩むのです。愛の御国の完成を目指して、皆と手を携えて進んでいくのです。しかし冒頭で申し上げたように、簡単な道ではありません。私だけではなく、皆さんも罪に対して「血を流すまで抵抗したことがありません」。私共には十字架の上で尊い血を流された「信仰の創始者」がおられます。主と、共にあるなら大丈夫です。