8月19日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降ってきたパンである。」

(ヨハネによる福音書 6章51~58節)

説 教 「内にいる」

本日の御言葉は「五千人の供食」の後に語られたイエス様の長大な「命のパン」の説教の結びです。イエス様は先週の御言葉までは、天から降って来た「命のパン」である「わたし」を「信じる」者は永遠の命を得ると語られていました。しかし、本日の箇所からは、「命のパン」を「食べる」者は永遠の命に生きるに変わっています。これは如何なる意味なのでしょうか。本日の御言葉は勿論「聖餐」のことを意識して記されています。しかし先週にもお語りしましたが、「聖餐」は、その意味を深く弁えなくてはなりません。私達は豊かな恵みを戴いているのです。イエス様は「五千人の供食」の前に、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(5:24)と語られていました。聖書の中に記された「聞く」は(エコウオー)であって、「聞く、聞き従う、耳に入る」の意味です。ユダヤ人にとって、聖書の言葉への「聞く」は「聞き従う」並びに「信じる」という行為にまで及ぶ意味で使われています。ここには大切なことが語られています。もう一つ語るならば、先週の御言葉です。イエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることはない」と言われました。また続けて、「父(神)から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」(6:45)と言われたのです。この意味は、神との「人格的交わり」が大切なことであると語っていることと同じです。(詳しくは「聖会」にて語ります。)聖書は神との「人格的交わり」です。神の言葉は「聞く」ことができます。神と人との関係は「互いに」「一方通行」であってはならないのです。イエス様の言葉に戻りましょう。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの「内に」命はない。」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり(メノー:留まる)、わたしもまたいつもその人の内にいる(メノー:留まる)。」イエス様を神から遣わされた「神の子キリスト」と信じる者は、永遠の命を得ます。その命のパンであるイエス様を「聖餐式」にて戴くものは、永遠に生きます。「聖餐」は古典的な解釈として、聖体変化説、共存説、象徴説と言われてきましたが、その何れを採るにしても、聖書の言葉が真実なものであるならば、(紛れもなく真実です。)「聖餐」に与かる者が「聖体変化」をしなくてはなりません。それがイエス様が言われた、「内にいる」の意味です。私達は信じ、食し、イエス様の姿に似る者とされるのです。