「聖 書」
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
(ローマの信徒への手紙 10章13~32節)
説 教 「神の賜物と招き」
パウロは「聖化」の道を辿りました。そのことは、彼が常に(with)キリストと共にあり、キリストの命を生き(in)、神の愛である「深い悲しみ」を共有していたことから分かります。私達もまた、パウロと同じ道を歩んでいる者です。ところでここまで「聖化」について御言葉に聴いてきた皆様に問いたいと思います。「何故、キリスト者は聖化するのでしょうか。」光輝く姿になり、誰彼に称賛してもらう為でしょうか。それは「違う」と、誰もが答えられるでしょう。では、「何故キリスト者は聖化するのか」このことを今回深く考えていただきたいのです。この答えは、本日の御言葉が勿論示唆していますが、少し難解なところもありますので、先に補完する話をしておきましょう。イエス様は公生涯の終わりに十字架に架かられました。イエス様は公生涯に入られる前に「聖」であられたことは想像に難くないでしょう。では何故イエス様は公生涯(伝道の道)に入られたのでしょうか。それは「深い悲しみ」を持っておられたからです。神の賜物と招きを受けていたイスラエル人が「不従順」に陥り、人生に希望を失い、滅びの道を歩んでいる姿を見て、イエス様は「深い悲しみ」を持たれていました。いつも共におられた神が同じ思いであることをイエス様は知っておられました。イエス様の「深い悲しみ」は「神の痛み」であったのです。イエス様は「神の声に従う」為と「同胞を愛する愛」に突き動かされ、「公生涯」に入られました。その公生涯の最後はイスラエル人の「不従順」によって、十字架に架かられます。イエス様の最後の言葉は、「彼等を赦し給え」でした。イエス様が光り輝き「聖」であられた理由は、その最期まで「神の愛を貫かれた」からです。私達も「神の愛を生き」ます。同胞の「痛み苦しみ滅び」に神と共に「深い悲しみ」を持ち、伝道に趣きます。「悔い改めよ。(神に立ち帰れ)天の国は近づいた。」人を愛する愛ゆえに「公生涯」(伝道生涯)は始まります。パウロも又同じでした。同胞を愛する愛に突き動かされて、伝道の生涯に入ったのです。しかしイスラエル人の不従順は簡単に変わるものではありませんでした。しかし、その伝道の難しさはパウロを「異邦人伝道」に向かわせます。パウロはそこで多くの実りを手にしました。パウロは、この神秘を見て、「神の計画」を知ったのです。「神の賜物と招き」は取り消されるものではないということをパウロは確信していました。パウロは「神の賜物と招き」と「万事が相働きて益となる」神の愛と神秘に確信を与えられて伝道に生きたのです。