「聖 書」
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることは出来ない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネによる福音書 6章60~69節)
説 教 「霊であり、命である」
私達人間は、「いのち」を渇望しています。ここで語る「いのち」は、「命」(生命)のことではありません。「人生」と言っても良いかもしれませんし、「希望」と言っても良いかもしれません。私達「人」は、ある年齢に達すると、自分の「死」について思いを巡らせるものです。人は「死」を見つめ、死に向かって「目標」を目指して、自分の「いのち」を生きていこうとすることが、一般的な人々の人生ではないでしょうか。この「いのち」は「尊厳」にも深く関わりを持つものです。日本は唯一の被爆国ですが、あの原爆投下の日、その地に住む人々は、自分の人生が今日終わるということを知らずに、普通のくらしをしていたことでしょう。一発の原子爆弾は、その人々の「いのち」を奪いました。その生命だけではなく、「いのち」を奪ったのです。その人の人生の計画や夢、希望を一瞬のうちに消し去ったのです。これは人の「尊厳」が奪われたということです。人の突然の死は戦争に限ったものではありません。天災や事故でも起こり得ります。私達は、この「不幸」に対峙することはできるのでしょうか。本日の御言葉において、イエス様は「命」という言葉を用いています。この「命」は(ビオス)の「生命」ではなく、(ゾーエー)の「いのち」のことです。主は人は「永遠の命」を持つことができると言われているのです。しかしそれは「霊」によって可能なのだと言われています。「命(ゾーエー)を与えるのは〝霊”である。」(6:63)この霊は(〝)が付いているので、神御自身の「霊」を表しています。以前の口語訳では、「人を生かすものは〝霊“である。」となっていました。この「生かす」は「神と共にあるいのち」のことを表す動詞が用いられています。私は初めに、人は「いのち」を渇望していますと語りました。そして人が持つ尊厳に関わる「いのち」のことを語りました。では、その「いのち」とイエス様が語られている「いのち」は同じものなのでしょうか。答えを先に言うと、同じものです。しかし人が「渇望」している以上、その手にしていないことは明らかです。イエス様は人が渇望して止まない「いのち」を手に入れる道を示して下さっているのです。では、それはどのような方法で手にすることができるのでしょうか。それは、ペトロが語った言葉、「信じて、知る」ことです。主は「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命(ゾーエー)である。」と言われました。ペトロは、その言葉を信じたのです。人は死に向き合うことができます。主の言葉を信じて、命を持つことによって。