「聖 書」
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン。
(ローマの信徒への手紙 11章33~36節)
説 教 「主の心」
私は2017年の説教で、同じ御言葉、同じ説教題で皆様に解き明かしを致しました。その時、私は「主の心」は「愛と富と知恵と知識と栄光」で満たされていると語りました。正に、パウロ先生の告白は正しい。解き明かしもそれで正しいと思います。しかし私は、その時に、具体的な話を通してお語り致しませんでした。本日は、本日の御言葉を具体的な例話を通して、お語りし、更に深い悟りを与えられたいと願います。私達、キリスト者の人生においても苦悩、失敗、病は訪れます。私共キリスト者はそのような時こそ祈り、苦難の意味を知る為に、神の「細き御声」を待ち望みます。しかし苦悶の中にある時に祈っても答えが得られない時があることも現実ではないでしょうか。その時、私共は絶望の感情に捉われることでしょう。パウロ先生も何度もそのような「絶望」を経験しました。信仰者にとって「絶望」は悪いことではありません。成す術を無くし、絶望した時こそが、自分(魂)が打ち砕かれる時だからです。その絶望の時に何に頼るかで人の人生は分かれ道を迎えます。人や物に頼る者、逃亡する者、色々でしょう。しかし私共キリスト者は「唯一の真の神」に頼ります。ここに逆説の真理があるのです。キリスト教は御利益宗教ではありません。いやむしろ真実に神を求めれば求めるほど、試練が与えられます。試練は練達を生みます。試練の経験は、神との深い交わりを与えていくのです。お隣の教会の説教を聴く機会が与えられました。うつ病を発症した牧師先生の「証」でした。牧師は語られました。私が与えられた苦しみや絶望は「まことの信仰」を得る為に必要な道程であった。苦しみを知る者となり、苦しむ者の気持ちが分かる牧師となったという意味ではありません。絶望の先にある「希望」を見出し、真の信仰(神が私を必要とされている)を悟り、新たな自分の使命に生きる力が与えられた。これが「主の心」です。「心」は(ノウス)です。(カルディア)「思い」ではありません。「思慮」「賢さ」を意味する言葉です。パウロ先生は本日の御言葉の中に(ヨブ記42:2)「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。」の信仰理解を組み入れています。私共の苦悩、絶望、試練は「神の愛」を経験する為のものです。すべてのもの、すべての事は「神の愛」から出て、「神の愛」によって保ち、「神の愛」に向かっているのです。どのような時も感謝し、喜びましょう。