「聖 書」
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えないを招きなさい。そうすれば、その人たちは、お返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
(ルカによる福音書 14章7~14節)
「へりくだる者」
本日の説教題は「へりくだる者」です。以前の口語訳や新改訳では、「自分を低くする者」です。ギリシャ語で(タペイノー)です。「面目を失わせる・貧しく暮らす」等の意味もあります。(14:11)の用法は「現能主男単」の動詞ですから「(自ら)面目を失わせる」の意味としても解せます。これは神の前に跪く礼拝者の姿です。これは本日お配りした「活水」(別紙)の中に記された「信心(敬虔)」(エウセベイア)の意味とも通じていると考えて良いでしょう。この姿の創始者であり、完成者は主イエスです。主イエスは「神の身分(モルフェー:かたち)でありながら、僕(仕える者)の身分となり、へりくだって(タペイノー)十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)とパウロ先生は証ししています。本日の御言葉は何故語られたのでしょうか。また次節に続く言葉に、「神の国で食事をする人」という句が何故に出て来たのでしょうか。それは(1:33)で、主イエスが「わたしは自分の道を進まねばならない」と言われ、十字架の死と復活の「三日目にすべてを終える」を語られたこと、(14:27)に「自分の十字架を背負ってついて来なさい」に挟まれていることから、イエスは「神の国」を愈々直截に語る必要に迫られていたからだと思われます。イエスが語る「宴会」の席は「神の国」です。それは「教会」(天国の先がけ)の姿でもあります。私共は本日の御言葉を通して「天国の姿」を知り、「天国の住人」であり続けるために必要な「自分の足で歩く道」の具体的な意味を悟るのです。主は「高ぶる者は低くされる」と言われます。これは自分のことを神よりも上に置く者は「面目を失う」の意味です。二つ目の「たとえ」は、それ以上のことを語ります。この食事は「振る舞い」です。お返しを思い「振る舞うな」の意味です。神は「無私の心」にて、貧しい者を愛する者を「天国の幸い」に招かれるのです。最後の句の「あなたは報われる。」は(神的受動形)で、あなたが無私にて行った「愛」は「神が報いる」の意です。「へりくだる者は高められる」=「自ら面目を失わせる者は神の栄光を得る」この言葉の真実な人は主イエスです。(週報)本日の御言葉は愛は何かを語ります。愛は与えることです。仕える(僕:ドウロス)ことです。愛はアガペである為に他者に向かう(グレゴリオ)。神は愛です。天国は愛を得ることです。「何も保たず何も所有しない者の喜び」(ズンデル)。天国は愛です。