「聖 書」
あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
(ヘブライ人への手紙 12章18~29節)
説 教 「揺り動かされることのない御国を受けている」
本日の御言葉は先週の続きです。「キリスト者にふさわしい生活の勧告」の中に入れられている句です。冒頭の14節には「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。」とあります。「主による鍛錬」が神の実子としての「聖」に与らせる力となることを既に学んだ私達は、「聖なる生活を追い求める」ことは、「神に信頼し、神に依り頼んでいく」ことであることは理解できるでしょう。では「キリスト者にふさわしい生活」を手にするためには具体的にどのようにすれば良いのでしょうか。その具体的なことが、本日の御言葉から解き明かすことができます。本日の御言葉には「二つの姿」が描かれます。どちらも神の臨在の姿です。人から見るならば、一つは「シナイ山に立つ人々」です。一つは「シオンの山に立つ人々」です。「シナイ山に立つ人々」は神の臨在を恐れています。(出エジプト19章)著者は語ります。私達キリスト者が「近づいている」臨在は「シオンの山」であると。この山は「揺り動かされることのない御国」です。その御国の説明を多くの例証を持って語っています。「最後の審判」の時、「揺り動かされるもの」は取り除かれます。「新天新地」が始まります。ここに語る「揺り動かされるもの」は地上だけではありません。御心に適わない罪人も被造物も取り除かれます。「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」では、主を信じ、主に従う私達はどうなるのでしょうか。それは御言葉の通り、主を信じたときから、「揺り動かされることのない御国を受けて」、生きているのです。私達は「天国」を過去も現在も未来も永遠に生きていくのです。天国は「生ける神の都」です。私達は、「感謝の念を持って、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていく」人生を歩んでまいります。本日は、更に「天国を生きる」を具体的に語りたいと願います。週報の挿絵を御覧下さい。「福者」の「ペトロ・カスイ岐部」です。2008年に列福されました。日本の殉教者「188殉教者」の一人です。彼は、遠藤周作「銃と十字架」や加賀乙彦「殉教者」の主人公として取り上げられているので御存じの方も多いでしょう。「殉教者」は(マルトゥス)で「証人」を意味します。今日は「聖霊聖会」で3人の「証し」を聞きます。「証し」は週報に記した通り、「キリストのものとされた」私共が「キリストを語る」ことです。岐部神父は「自分の十字架を負う」生涯を歩み、神と人に仕えました。「同胞のために前進しよう」パウロ先生の信仰と同じものです。神を喜び、神に仕える人生が天国です。私共は「御国」を受けています。