8月4日(日)聖日礼拝

「聖 書」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。…

「わたしが命のパンである。」わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 (ヨハネによる福音書 6章24~35節)

説 教 「永遠の命に至る食べ物」

「五千人の供食」の出来事は、本当に起こった「奇跡」であると先週に語りました。しかし我々は、聖書に記された奇跡を単なる奇跡としてではなく、「しるし」として見ることが大切であると続けて語りました。では、聖書が語る「しるし」とは何でしょうか。それは、神の言葉を真の神の言葉として、出会わさせてくれる「道しるべ」(サイン)です。どうぞ豊かな目をもって、神の世界を見て下さい。そこには、あなたを愛し、あなたを招かれる神の愛の世界が「存在」しています。本日の御言葉の基本的な解き明かしは以前のものを参照下さい。(2018.8.5、2021.8.1、2012.8.5参照)以前の説教にても、お語りしましたが、「五千人の供食」の「しるし」は、主イエスが、私共をまことに「満たす」命のパンであるということです。本日の御言葉(パン)は語ります。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(33)「神のパン」は主イエス(御自身)であると宣言されています。パンである主は、世に、どのような命を与えられるのでしょうか。それは永遠の命です。では「永遠の命とは」何か?それは、「永遠者(神)との交わりのうちにある生命」のことです。私共は不信仰です。神の言葉である聖書の出来事を本当には信じていないのです。この不信仰は永遠に私共を救いには導きはしません。では、どうすれば不信仰を克服し、まことの喜びに満ちる信仰者になることができるのでしょうか。27節を御覧下さい。そこに主の答えが記されています。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」これが答えです。「働く」は以前にも語りましたが、「行う」(エルガゾマイ)です。答えを聞いた群衆は、「(永遠の命に至るために)自分が何をしたらよいでしょうか」と、主に返答しました。私共の答えと同じです。私共は、永遠の命の中にいない時は、「終わりのない不安と欲望」の世界に生きています。何をしたらよいのか。何をしたら満たされるのか?と先の見えない人生を歩んでいます。彼らは、「神の業を行うためには」と言いました。善行を積めば永遠の命を得ることができるのかの問いです。「神の業」は(エルガトゥテウー)です。彼らは、言葉掛けをしたのです。主は「わたしを信じることが神の業である」と言われました。主を信じることが「行う」(神の業)ことです。主を信じ、受け入れる時に、私共は永遠の命のうちに招かれ、御言葉の百倍の実を得ます。