「聖 書」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
(ヨハネによる福音書 6章24~35節)
説 教 「命のパン」
本日の御言葉のひとつの難解な箇所は31節32節です。イエスのもとに集まる群衆がイエス様に「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」と「しるし」自身であられる主を前に語り、マンナのことを続けて語っているのが31節です。群衆は、「しるし」として「モーセは天からのパンを彼らに与えて食べさせた。(過去形)」と語ります。しかし主は、「モーセが天からのパンを与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。(現在形」と言われました。まことにイエス様の答えは正しいものです。群衆の引用した聖書の箇所は出エジプト記16勝4節の箇所です。そのところには神御自身の言葉で、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。(現在形)」と記されています。神は今も、「まことのパン」を与え続けてくださっておられます。神は過去に存在しただけの方ではなく、現在もあり続け、いてくださっておられる方です。イエス様の答えはまことに正しいものでありますが、群衆は理解できたのでしょうか。その答えは否です。ヨハネは天からの「しるし」である主に対する無理解を群衆から始めて、ユダヤ人のつぶやき、弟子たちの離反に至るまで余すことなく語っています。その「無理解」は本日の御言葉が起点となっています。ヨハネは本日の御言葉をイエス様と群衆の会話の形にさせて、言葉のしりとりをしています。同じ言葉を用いて会話がなされていくのです。しかし同じ動詞が使われていても、二人の会話には「異話感」があります。例えば27節の主の言葉、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(エルガゾマイ)」に対して、群衆は28節で、「神の業を行う(エルガゾマイ)ためには、何をしたらよいでしょうか。」と返しています。主が語られた「神の業」は「神御自身が行う業」のことです。にも拘らず、群衆はイエス様の言葉「働く」を「自らの努力で行う、自力で獲得する」ことと取り、「神の業を行うためには何をしたらよいのでしょうか。」とずれた答えを返しているのです。主が言われた「働く」は、「イエスを信じること」です。そのことは29節にも記されています。それでは私達はずれてはいないのでしょうか。主を信じ、「命のパン」であるイエス・キリストを食しているでしょうか。「命のパン」を食すとは、「私の体がイエス・キリストによって生成されていく」という意味と同義です。「命のパン」を戴くキリスト者は「キリストと同じ姿」に変えられていくのです。