8月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものになっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

(ペトロの手紙 二 1章16~19節)

説 教 「主の変容」

本日の御言葉でペトロは、私達に何を語ろうとしているのでしょうか。主の来臨は近いということでしょうか。私はキリストの威光を目撃したという証言でしょうか。それとも、イエスこそ聖書が予言したキリストであるというメッセージでしょうか。今語ったことは、すべてが間違いではありませんが少しずれています。本日の御言葉は「ペトロたちの証し」です。「わたしたちはキリストの威光を目撃した」「わたしたちは天から響いてきた声を聞いた」「わたしたちには預言の言葉は確かなものになっている」お分かりでしょうか。ペトロは「わたしたちは」という主語を強調しているのです。ペトロの手紙二では、冒頭の挨拶で、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」と語られています。ペトロが信徒に手紙を認めた理由は、「神が賜る恵みと平和」をすべての信徒が手にしてほしいという願いからです。どうでしょうか。御言葉を聴く皆様はペトロが願う「恵みと平和」を手にしているのでしょうか。それとも…。もし今すぐ「恵みと平和」を手にしたいと願う方は、本日語られるペトロの御言葉に耳を傾けなくてはなりません。ペトロは冒頭の言葉で「恵みと平和」を手にする方法を先に述べています。それは先程の御言葉、「わたしたちの主イエスを知ることによって、」恵みと平和がキリスト者に与えられる。ペトロは「主イエスを知る」ことを通して、神の「恵みと平和」は与えられると語りました。皆様は「主イエスを知っている」と言われるでしょうか。本日の御言葉の前節に、「あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」と記されています。この意味は、1章5節以下を読めば分かりますが、簡単に述べるならば、キリスト者の「実を結ぶ」(聖化)ことを通して、「キリストを知る」こととなり、その「知る」ことは、信仰者自身が「キリストに似た者」とされるという意味が込められています。付け加えて述べるならば、「永遠の御国に入ること」(栄化)が確証されているということでもあります。ペトロは天に迎えられる今、(書簡真偽にかかわらず)信徒に向けて「遺言」として、自分の体験と希望を語ります。わたしは「主の変容」を見た。わたしは自分の十字架を負い続けて、「主を知る者」となった。わたしは「天の御国に迎え入れられる」という希望を確信をし、手にしている。わたしは「主の変容」の姿と同じ者とされる。あなたも又。