8月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を見上げると、イエスのほかにはだれもいなかった。
(マタイによる福音書 17章1~9節)

説 教 「キリストの栄光」

何と素晴らしい御言葉でしょうか。「主の変容」の御言葉です。私は何度も、このところの解き明かしをしてきました。御言葉は日々に新しい。これは真理です。私は今、新たな気持ちで御言葉と向き合っています。私は7月に入り、静養しながら「務め」を果してきました。私の「弱さ」を助けて、信徒の方々が祈りを捧げて下さっています。その中で、「聖霊聖会」を持つことができました。素晴らしい聖霊の満たしを経験致しました。会を閉じ、深く思いました。この素晴らしいメッセージをもっと多くの教友や未信者の方々に聴いてもらいたい。その方策を主に願い、「聖意」を探り求めます。本日の御言葉の最後にて主は、「今見たことをだれにも話してはならない。」と弟子たちに命じられました。何故でしょうか。それは、彼らが未だ真実を知らずに、「受難のメシア」を誤解している者であったからです。神は、弟子達の為に、主の受難の前に「キリストの栄光」の姿を、先に見させて下さいました。私は、これと同じ経験を「聖霊聖会」でしたと思います。「キリストの栄光」を伝える者に「中身」が無ければ、何も意味がない。自分自身が真理に出会い、自分自身が霊の命に変えられなければならない。私達は互いに祈り求めましょう。主は弟子たちと共に「高い山に登られ」ました。(モーセのシナイ山が予型です。)神は先に「栄光」を見せられたのです。主は「太陽のように輝き」とあります。「輝き」(ラムポー)は能動形です。5節には「光り輝く雲」があります。「輝く」(フォテノス)は神的受動形です。神は「光り輝く雲」(シャハイナグローリー)の中から、「これ(主イエス)に聞け」と言われました。主御自身に「輝き」(能)があるのです。その輝きは内から照らされる「輝き」(受)でもあります。この「輝き」は神と一つであるところから来るものです。ロッコ神父の語られた「コミュニオン」の姿でもあります。しかし私共の共同体は輝きません。敵意と言う「隔ての壁」(エフェソ2章)があるからです。吉田牧師は聖霊(風)の働きを受ける者は「隔ての壁」を壊さなければならないと言われました。本当にその通りです。私達は真理を知っているだけでは何も伝えることはできないのです。私達自身が、主に聴き従い、「キリストの栄光」の中に生き続ける者であり続けましょう。主は「恐れることはない」と言われました。私共は恐れる者です。しかし主は常に先んじて栄光を見せ、手を取って共に行かれます。