「聖 書」
わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。…
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
(ヤコブの手紙 1章16~27節)
説 教 「この御言葉は、あなたがたを救う」
本日は「ヤコブの手紙」の1章を初めに通読します。(通読)如何でしょう。本書は「公同書簡」の一つで、各教会で回覧され、朗読されました。1600年頃、バプテストの創始者ジョン・スミスは説教にて、ヤコブ書を単に暗唱することをもって講壇を降りました。すると、そこに聖霊が働き、会衆は心砕かれ、悔い改めを為し、リバイバルの発露となったという逸話が残されています。御言葉には、このように力があります。御言葉は、私共の生き方を変える「活ける水」です。私は今、御言葉は「生き方を変える」と申し上げました。正に本日は、そのことが御言葉の要約です。私は以前の説教にて、「御言葉を行う」の意味を「良い行いは救いをもたらせないが、救いは良い行いをもたらせる。」という趣旨で語りました。本書は「藁の書」(ルター)ではありません。本書は「信仰の証し」です。主イエスが私共に働かれるを通して起こる「聖化」の証しが記されているのです。私共は御言葉に説教に感動をします。しかし日が経つにつれて、その感動を忘れます。そのことを「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」(1:24)と本日の御言葉は語ります。御言葉は鏡です。「私」という存在のありのままを映し出します。私共は御言葉により、罪を示され、悔い改めを迫られ、その回心の先にある「幸い」(マカリオス)を知ります。私共は信じることを通して幸いの方に変わりたいのです。では、それは如何にして変わることができるのか。それは本日の「説教題」です。「この御言葉は、あなたがたの魂を救う」(1:21)皆様は、この意味を本当に今日知らなくてはなりません。このことも以前の説教で語ったことですが、「御言葉を行う人になりなさい」を直訳すると「御言葉の権化(パフォーマー)を現せ」です。この勧めは本物の信仰者の姿を語っています。私共は御言葉を受け入れるならば救いを経験します。この救いは私共を「御言葉の権化」にするのです。小さい者の世話(労り)をし(サルペイ)、自分を愛し(赦しを信じる)、愛の世界を生きるのです。先週語られた「妻、子、奴隷」は神との関係にある「私」の姿です。私共は「私を愛して下さる神」に仕えます。それと共に、先に救われた神の子である私共は「小さい者」を愛し、仕える人生に招かれています。信仰の救いの先にある「行い」の世界に天国があり、真の幸いがあります。御言葉は完全な「賜物」です。御言葉に聴きましょう。