9月2日(日)聖日礼拝

「聖 書」

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

(ヤコブの手紙 1章12~27節)

説 教 「御言葉を行う」

本日の御言葉には「御言葉を行う人になりなさい」という著者の勧告が記されています。著者は続けて、「(御言葉を行う)このような人は、その行いによって幸せになります。」とも語っています。ルターはヤコブ書の「勧告」を信仰には「行い」が必要であると採りました。勿論そうでありましょう。ヤコブは「行いを欠く信仰は死んだもの」と語っているのですから。ルターは福音信仰の「再発見」をし、「信仰のみ」を是とした人物です。ですから「免罪符」にも抗議をしたのです。ルターの信仰は、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物(ドローン:無償のギフト)です。」(エフェソ2:8)と語るパウロの信仰を捉え直しをしたものです。救いが、信仰が、神からの「ギフト」(無償の贈物)であることは、全てのキリスト者が是とすることです。ではヤコブ書は信仰には「行い」が「必要」と語ったのでしょうか。それは「否」です。ルターが、本書を「藁の書」と呼んだことは、現代のキリスト者は受け入れてはいません。ヤコブが「行い」を語った意味は、「キリストへの信仰は、信じる者の人生に良い働きを生み出す」ということです。これはパウロもパウロの書簡にてよく語っていたことです。これらのことを簡単に言うと、「良い行いは救いをもたらせないが、救いは良い行いをもたらせる。」ということです。これらのことは本日の御言葉も、その意味を如実に語っています。初めに記した、「(御言葉の)その行いによって幸せになります。」は、マタイ書の主の「山上の説教」を簡潔に述べているだけです。ここに記された「幸せ」は(マカリオス)で、「祝福」(アシュレー)の意味です。「祝福」は、「あなたは何と神から祝福を受けている幸いな人でしょう。」という意味です。ですから、「御言葉の行いを為す人は、神から何と祝福されている人でしょう。」という意味で、ヤコブは、「信仰の行い」を語っているのです。更に、その意味を詳しく解き明かすなら、ヤコブの語る「信仰の行い」とパウロの語る「信仰の行い」の違いを語る必要があります。ヤコブの「行い」は「隣人愛」のことであり、パウロの「行い」は「古い律法」のことを語っています。ヤコブの語る「信仰の行い」は聖化のことです。「御言葉を行う人になりなさい。」を直訳すると、「御言葉のパフォーマー(権化)を現わせ。」です。つまり「御言葉のいのちを現わす人になれ」が本日の御言葉の意味です。私共も又「御言葉を現わす人」へと成長致しましょう。