「聖 書」
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
(テモテへの手紙一 2章1~8節)
説 教「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」
パウロ先生は、今、エフェソにとどまり牧会をしている愛弟子テモテに励ましの手紙を書きました。テモテは牧会者としては若く、経験も浅く、牧会の悩みを抱えていました。その愛弟子に対してパウロは言うのです。「正義、信心、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように。」(6章「信仰の戦い」)先生は「信仰を手にする」ことこそが牧会の悩みに対処する最良の方法であることを告げたのです。これは牧会者だけでなく、悩みの中にあるクリスチャンのすべてに告げられている真理です。先生は人ごとのように勧告したわけではありません。本日の御言葉の前節に「神の憐みに対する感謝」が記されています。その中で先生は自分のことを「罪人の頭である」と告白しています。私は以前に「パウロ」という名前は「小さい者」を表すと申し上げました。先生は裕福な家に育ちましたが、どこかコンプレックスを持たれていた方であったのではないかとも想像します。(暴力をふるう等から)先生は、その過去から決別します。真の信仰を得たからです。「しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐みを受けました。」(1:13)先生は「主の恵み」が、あふれるほど与えられましたと次節で告白します。「復活の主」に出会い、「目からうろこのようなものが落ちる」体験をした時から得た真の信仰。この、先生が語る信仰は生きている「あなたを生かす信仰」です。弟子たちは「復活の主」に出会いましたが、はじめ主とは分かりませんでした。神の本質になられていたからです。「主イエスは神である」これは「内的質的変化」です。私達には神を見ることも触ることもできません。私共は主に来て頂き、私共の「心の中」で「主は神である」と信じることでしか、信仰は生まれないのです。この信仰は「力」となります。本日の御言葉は「敵に対しても祈り」なさいと勧める勧告です。秘訣は「清い手を上げて祈る」ことです。キリストの手と心で祈ると言うことです。本日、ボンヘッファーの「善き力にわれかこまれ」の歌詞をお配りしました。絞首刑になる前に恋人に送った「詩」です。彼は従順(ヒュパコー)と遜り(タペイノー)を生きました。天国にいたのです。「従順」は「SAY YES」のことです。アブラハムがイサクを捧げること、地獄に行けと言われてもYESと言う信仰です。「遜り」は神への絶対の信頼です。贖って下さる神への感謝を告白するものです。私達の「祈りの手」は「贖い主キリストの愛」にあります。