「聖 書」
生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
(フィリピの信徒への手紙 1章20~30節)
説 教 「福音にふさわしい生活」
本日のパウロ先生は、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」と言われています。何故、死ぬことは利益なのか。それは、死ぬことは「キリストと共に永遠にいる」ことになるからです。この逆説に聞こえる真理は、先週にお語りした「赦すこと」は犠牲でなく、「得ること」であるという真理と同じ線上にあるものです。本日の御言葉の最後に示された「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」も同じです。本日の説教題は、「福音にふさわしい生活」です。これはキリスト者として形式的な品行方正(謙遜の傲慢)を語る言葉ではありません。「ふさわしく生活しなさい」は(ポリテューエスセ)です。この言葉は古代自由主義国家に生きる国民が用いるものでした。「気品が国の品格を上げ、国を豊かにし、誇りある国を守るためには戦いにも赴く」という意味の言葉です。「国」を「教会(天国)」に変えて読めば、その意味が理解できます。パウロ先生の福音宣教における「苦しみ」も「キリストの栄光が現れる」ためです。先生は牢獄の苦しみさえも、神は宣教の実りとして用いられたと語ります。パウロ先生の姿はキリスト者に天国の確信を与えるものでした。フィリピ書に登場するテモテ(愛の人)しかり、エパフロディト(勇気の人)しかり、本書には本物のキリスト者の姿が描かれています。神は私共に天国を用意されました。主は「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない」と言われました。そして、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われたのです。「父の心を行う」とは何でしょう。それは先週にお語りした「憐れむ」ことです。天国とは何か。「父の憐れみ」(十字架の贖い=無限の赦し)です。私共が神の救いに感謝を捧げ、「父の憐れみを生きる」時に天国は私共の中にあり続けます。私共は古い革袋を捨てて、新しい革袋に新しい命「霊」を入れるのです。仲間を赦さない家来になってはいけません。洗礼者ヨハネが現れてから今に至るまで、天国は力ずくで襲われています。しかし天国は「力ずく」で得ることはできません。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と主は言われました。私共は主イエス・キリストを信じます。主の生きた道を追いながら福音の道を行きます。私共は主の戦いをパウロ先生の戦いと同じ戦いを戦います。福音の苦しみは、天国の勝利の道です。