9月4日(日)聖日礼拝

「聖 書」

大勢の群集が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし。だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。」

(ルカによる福音書 14章25~33節)

「塔を建てる」

「自分の十字架を背負って主に従い行く生涯」何度も聞いてきたキリスト者を表す言葉です。しかし「主の十字架」の意味を真に知る者でなくては、その「道」は本物ではありません。主は本日の御言葉を通して、私共に「道」を示されます。本日の御言葉には「弟子の条件」と付いていますが原書にない小見出しです。私は以前「弟子の覚悟」が良いと思いましたが、今は「条件」が良いと思っています。御言葉の見方が変わったからです。私は「がんばるキリスト者」であったことを以前お語りしましたが、キリスト者は自らの「がんばり」に頼る者は本物ではありません。キリストの弟子は「主に信頼する者」です。本日の御言葉は「条件」なのです。主が自分の道を進まれる中で、大勢の群衆がついて来ました。イエスに従うことに、「得」を見出した者も多くいたことでしょう。その証拠に、主の十字架が近づくにつれ、「得」がなくなったら、多くの群衆は離散しました。主は、群衆に「十字架の道」を語られました。自分についてくる「弟子の条件」を語られました。その「条件」は「捨てる」(ミセオー「憎む」:アポタソー「別れを告げる」)でした。私は以前の説教で「捨てる」ことは「執着を捨てる」ことであると語りました。ですから説教題を「腰をすえる」とし、その意は、キリストの弟子の道を行く者は「まず座る」(自分の計画を捨てる)を選び、自分の執着を「捨てて」、神の計画に生きよと語ったのです。これは間違いではありません。しかし深みが足りないのです。「主の十字架」の意を受け取っていないのです。まだ「捨てる」に「自分のがんばり」があるのです。ですから説教を聞く者は「弟子の覚悟」として聞かされるのです。本日の二つのたとえは、これを聞く者は具体的な事例を思い起こしているでしょう。(円形劇場の手抜き工事、ヘロデ王の戦争後の没落)しかし主は皮肉を語っているのではありません。そう受け取るならば、後節の「座り」が悪くなります。この「たとえ」はキリスト者の道は「塔を建てる」ものであり、「平和を創り出す」ものであることが語られている意味です。主は「腰をすえて」自分の計画に頼らずに、神に信頼して歩めば塔が完成すると言われているのです。私共の内に外に戦いがあっても、自分の「面目を捨てて」神に信頼して前に進めば「平和」が創り出されるの意です。主は喜びを前に十字架を行かれました。私共の十字架の前にも喜びがあります。