「聖 書」
そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによってーこの方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。
(使徒言行録 10章34~38節)
説 教 「ペトロは口を開き」
皆様、イースターおめでとうございます。本日は喜びの「洗礼式」が御座います。本日は皆共に、神の前に額ずき、喜びの日にして頂きたいと願います。さて本日の御言葉は「主の洗礼」や「洗礼式」の時などにも、よく読まれるものです。本日の御言葉の続きに、コルネリウスたちが洗礼を受ける場面があることからも理解できるでしょう。しかし「復活日」に読まれる御言葉としても用いられるのです。それはペトロ先生の「復活の主に出会う」ことの意味がよく分かる箇所だからです。それは如何なることかを説明するため、2箇所違う聖書個所を開けて下さい。一つは(ヨハネ21:15~19)(週報参照)のペトロが復活の主に出会い「信仰と愛が回復する」場面であり、もう一つは(一ペトロ1:3~9)の復活信仰による「新生」と「魂の救い」を語る場面です。ペトロ先生は主イエスから「天国の鍵」を授かるほどの者です。にも拘わらずに、十字架を前に逃亡しました。主への裏切りです。ペトロ先生の深い傷です。その先生は「復活の主」に出会うことを通して変貌するのです。何が起こったのでしょうか。裏切りの傷は簡単に癒えるものではないのではないでしょうか。しかし「癒された」のです。前節に書かれているように、「ただの人」である先生が「神の人」とされているのです。本日の御言葉は、異邦人であるコルネリウスが聖霊の導きのもと、ユダヤ人であるペトロ先生の前に出て、「神の前に出ている」心を示した続きの場面です。「そこで」、先生は福音を彼らに告げました。「十字架の死と復活と昇天」と「罪の赦し」が語られたのです。ペトロ先生は自分は「復活の証人」であると語りました。本当にそうです。ペトロ先生自身が「新生」しているのです。復活信仰は、目に見えなくとも、目にする以上の「確信」を聖霊が与えて下さる体験です。本日の御言葉は、全て「聖霊の働き」が語られています。異邦人とユダヤ人の隔ての中垣が取り除かれる聖霊の導き。真理が示される聖霊の働き。この聖霊の働きは復活信仰から生まれます。「傷が癒されること」「罪が赦されること」「新生すること」は全て「復活信仰」の恵みです。復活の主イエスの名を信じることは、「罪の赦し」を得させ、「新生」の道へ進みゆかせます。本日の洗礼を受けられる方々は「先に主の恵み」がありました。聖霊の導きがあったのです。「洗礼式」は神が全責任を負い、神が、これから歩まれる信仰の生涯に責任を持たれる聖礼典です。主はあなたの全てを知る神です。