3月24日(日)聖日礼拝

「聖 書」

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走りより、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった。」と言った。

(マルコによる福音書 15章1~39節)

説 教 「イエスは大声を出して」

受難週を迎えました。本日は「受難主日」(棕梠の主日)です。本日は主が、十字架上で最後に叫ばれた言葉は、何であったのかを知りたいと願います。それは勿論、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)や「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)ではないかと言われると思います。私は、そうではないのではないかと思うのです。ここに記した言葉は、ハイドンの「十字架上の最後の七つの言葉」の引用であり、福音書の言葉です。この「言葉」は四福音書からのものでありながら、「七つの言葉」は、それぞれの福音書の寄せ集めです。「言葉」の記載は一様ではないのです。マルコ書に至っては、最後の言葉は記されず、「イエスは大声を出して息を引き取られた」とだけあります。マルコ書は「イエスの沈黙」を描きますが、これは想像してみて下さいの意味ではありません。マルコ書を読む者は、福音に与っている者であり、福音の「重み」を知る者が、今、福音書を読んでいるのです。以前に語った如くに、本書は「受難」を中心に福音を語っています。読む者は受難を知る者です。本書は冒頭に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)と記しました。その初めに、主イエスは「キリスト」であり、「神の子」であると告白しているのです。そして本書の多くに「受難物語」に頁を割き、「受難」に「福音」があることを示しました。その証拠が本日の御言葉です。イエスの十字架上にて「このように息を引き取られたのを見て」、百人隊長が言うのです。「本当に、この人は神の子だった。」冒頭の1章1節に帰るのです。百人隊長の「このように」は何を語っているのか。主は一貫して沈黙です。しかしマルコ書においては、二回「大声を出され」ました。一度目は33節「サバクタニ」(捨てられた)です。これは私共の身代わりの「罪人の叫び」です。私共が当然受ける苦しみの「叫び」です。主は「人の子の栄光」(イザヤ書53章)を受けられたのです。主は詩篇22編の「わが神」と言われ、神に捨てられる痛みを叫ばれました。この時「父よ」とは叫ばれなかったのです。そして栄光が成就されたことを知り、本当に人の「死」に飛び込んでいかれたのです。これは「イサクの奉献」が本気であったことと同じです。そして主は最期の「息を引き取る」(霊が出される)時に、大声で叫びます。「アバ、父よ」神に見捨てられ、死の苦しみの中で、なお「父よ」と叫び、死に赴いたのです。その委ねる姿を見た隊長は「神の子」と告白したのです。